障害児教育における教職員配置について―包摂と投棄をめぐって 榊原賢二郎 東京大学大学院総合文化研究科博士2年・日本学術振興会DC1  障害学の中心的課題は、障害者の社会的排除を解消することであったといえる。例えばイギリスの運動体である反隔離身体障害者連盟[UPIAS and DA 1976 : 14]が障害の社会モデルの基礎を提示した際、問題にしたのも、障害者に対して配慮を提供せず排除する社会であった。  それではその対義語であり目標である障害者の社会的包摂とはいかなる概念だろうか。包摂についての論争が最も尖鋭になる領域の一つである障害児教育に即して考えてみたい。  宮崎[2004:65-70]によれば、障害児教育に関して対立してきた二つの立場の人々が、1994年のサラマンカ宣言を契機に、異口同音にインクルージョン=包摂を口にし始めたという。それらは、「学力・発達の保障」を重視する立場と、「健常児のなかま集団」を重視する立場であった。前者は、特別な場における障害児の持てる可能性の最大化を、後者は通常学級における将来障害児を支えるなかま集団の形成を主張した。  いずれかを真の包摂=インクルージョンと呼ぶことは可能である。しかし、学力・発達の保障となかま集団は、ともにそれ自体は否定しえない価値であり、「あれかこれか」[ibid.: 66]という択一の関係に置く必要はないかもしれない。むしろこれらを異なる社会観に基づいた異なる包摂観として把握することができる。暫定的に言えば、後者は、社会を具体的な個人によって構成されるものと把握し、共生や連帯を包摂の基礎とする。一方前者は、社会を様々な機能領域から構成されると把握し、能力や機会均等を包摂の基礎とする。そして、「あれもこれも」[ibid.: 66]、つまり二つの包摂観の両立可能性をいかに高められるかに、包摂論の水準を引き上げることもできるだろう。本発表では日本の障害児教育でも特に財政面に即して、これらの両立可能性を減少させ増大させる要因を明らかにすることで、障害者の社会的包摂について考える手がかりを得ようとするものである。  教育財政のあり方がもたらす帰結についての研究として苅谷[2009]を挙げることができる。これは特に教職員の標準的な人数の決定方法の日米比較を行ったものである。教員数の算定の単位として、アメリカでは出席児童数と教員が教える時間数の積(生徒時間)が用いられた。一方日本では、戦争によるインフラ毀損や地域間格差といった制約から学級定数が採用され、1958年の義務教育標準法として制度化された。苅谷は、学級定数に基づく算定方法は、定員を下回る学級の存在と人口変動によって、全体的教育条件の改善や地域間格差の是正に結びついていくと論じる。こうして学級定数による教員数の算定から実現する学級・地域単位の平等を、苅谷は個の平等に対して面の平等と呼んでいる。  こうした苅谷の議論は、障害児教育における教員配置の問題と深く関係していると考えられる。先取りして言えば、日本の障害児教育は教育一般と同じく、学級定数を低く操作することで条件を改善するという論理をとっており、このことが手厚い財政配分と分離を帰結しているように思われる。  その一つの表れとして「障害のある児童生徒への十分な教育に必要な人的体制・物的条件の整備について(義務教育段階)」[文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 2010]という文書を挙げることができる。これは、日本政府が障害者権利条約の批准のための国内法整備の一環として、インクルーシブ教育にかかる費用について二つの想定に基づいて試算したものである。そのうち、「想定A」は、総額12兆1485億円を要するとされている。文部科学省の予算[2011]と比較しても、この試算結果は巨額であり、インクルーシブ教育の非現実性を示すもののように思われる。  「想定A」は次のような前提を置いている(抜粋)。 ・現在特別支援学級に在籍する生徒は通常学級へ移動し、移動先に教員を1名配置。 ・通常学級には発達障害児が在籍するため25人学級に ・特別支援学校在籍児童の一部が特別支援学級へ移動。学級定数は原則6人、重度の生徒は3人。 ・不足教室の増築、すべての小中学校のバリアフリー化  費用の内訳は以下のとおりである。 教員(322,200人増)…2兆1517億円 支援員(8,500人増)…102億円 看護師(1,800人増)…36億円 不足教室等の増築(25人学級対応)…6兆1160億円 特別支援学級増築(43,200教室等)…1兆6060億円 バリアフリー設備…2兆2610億円  この試算の内、少なくとも7兆6000億円ぐらいが、実は25人学級という前提に伴うものであることが計算すると分かる。この25人学級という想定は、実は苅谷氏[2009]が「標準法の世界」と呼ぶ、学級定数による教育予算の配分という配分論理に対応していることが分かる。そこでは、学級定数は教員と生徒の比率(PT比)に結びついており、この意味で、教育の質と呼びうるようなものに結びついている。よい教育条件を財政上で表現すれば、低い学級定数に対応するのである。  「これまでの特殊教育は、障害の種類や程度に対応して教育の場を整備し、そこできめ細かな教育を効果的に行うという視点で展開されてきた」[特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議 2003]という総括も、この観点から解釈されうると考えられる。小中普通学校における単式学級の定数が、2010年まで40人であった一方、特別支援学級の定数は8人、特別支援学校の定数は6人(重複障害の場合3人)である[文部科学省初等中等教育局財務課 2010]。したがって一人あたりの教育予算は特別支援学校・学級に圧倒的に手厚く配分されることになる。  このように、特別支援学校・学級は、低い学級定数の設定によって比較的多くの予算を配分されている。しかし、こうした学級定数の操作による質の確保という手法が分離教育をもたらしてきたと見ることもできる。障害児に対して、現状の通常学級におけるより手厚い教育を施そうとすると、学級定数の引き下げが巨額の歳出を伴う以上、より学級定数の低い別の学級に措置するかしか選択肢がないからである。先述の障害児教育における発達保障対共生共育という状況は標準的学級か少人数学級かという対立でもあったのではないか。  発達保障派から共生共育派への以下のような批判も、この観点から把握できるだろう。  「インクルージョンは、特別な教育的対応を必要とする子どもを特別な教育的対応なしに通常学校や通常学級の中に教育措置することを意味するダンピングではない」[清水 2003:154]  包摂を論じる時、こうした適切な支援の欠如としての投棄(ダンピング)の問題を回避することはできない。この投棄批判は、通常学級では手厚い対応を行えないため、見た目は包摂であっても実際は投棄であるという主張である。しかしなぜ通常学級で手厚い対応を行えないかを考える必要がある。その一端は、学級定数に基づく配分方式が、分離しない限り手厚い予算配分を保障できないからであると考えられるのではないか。  しかし、最近これとは別の形で障害児に人的支援を提供する制度として、特別支援教育支援員制度が開始されている。特別支援教育支援員は、小・中学校内で障害児の介助や学習上の支援を行う人である。この制度は2007年度から地方交付税の措置の対象となった。  具体的な役割としては、「「特別支援教育支援員」を活用するために」[ibid.]というパンフレットに以下のようなものが列挙されている(大項目のみ)。 1.日常生活上の介助 2.発達障害児の学習支援 3.学習や教室間移動の介助 4.生徒の健康・安全確保 5.学校行事での介助 6.周囲の生徒の障害理解促進  特別支援教育支援員の活用状況について見ると、2006年に1万8200人、2008年に計2万6092人、平成22年度には約3万7800人(小中学校に3万4000人、幼稚園に3800人)、地方交付税の措置額は約435億円となっている[文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 2008a][文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 2011b]。  特別支援教育支援員の費用として、市町村の地方交付税に学校数×120万円(×補正係数)が算入される[文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 2008b][地方交付税法2条3号・10条2項・11条・12条各項・13条各項]。これが特別支援教育支援員の配置に対する全国規模の財政的裏付けとなっている。  しかし、この制度にも問題点が存在する。まずDPI日本会議[INT]は三点ほど問題を挙げている。第一に、地方交付税措置による財源を市町村が活用するかどうか不明であること。実際、その使途は制限されていない[地方交付税法3条2項]。第二に、特別支援教育支援員を特別支援学校に配置される実態もあること。第三に、プールや課外活動、遠足などに障害児が参加できない実態や親が付き添いを求められる実態がいまだ変わっていないこと。  これらに加えて次のことを考える必要があるだろう。投棄ではない包摂を、特別支援教育支援員に関わる財政措置に反映させるとしたら、それはいかなる形になるのだろうか。まず、通常学校を選択した際に十分な支援を受けられなければ、それは投棄となる。したがって、財政上も十分な裏付けを確保しなければならない。しかし、現在の学校数×120万円を基礎とする制度では、将来十分な費用を確保できないように考えられる。この額は、事実上学校当たり平均一人前後の支援員という計算になるが、学校数を参照すると[文部科学省生涯学習政策局調査企画課 2011]すでにほぼ上限に達しており、適切な測定単位と単位費用の適用が必要となろう。  次に、場の統合と分離の選択を個人に保障するのであれば、その裏付けとして通常学級を選択しても、特別支援学級・学校と同等の資源を割り当てられる必要がある。これは、特別支援学校から通常学校へ生徒が移動すればするほど、先述のように特別支援学校により手厚く割り当てられていた資源を通常学校に移していくということでもある。これは特別支援学校・学級の資源を全てなくすというものではない。障害児やその保護者が、通常学級を選択する権利だけでなく特別支援学校・学級を選択する権利も有すると考え、あくまでも通常学級を選ぶ生徒の割合に応じて、適切な量の予算を移行させることである。  現状は、特別支援学校を選択する生徒が少なくなると、特別支援学校の学級数が減少し、特別支援学校に対する国庫負担金も減少することになる。一方、通常学校を選択する生徒が増加しても、学校数は容易には増加せず、支援員への配分は増えない。これを障害を持つ生徒個人に即して見ると、財政配分上は依然特別支援学校を選択するよう促されていることになる。  この意味でも測定単位・費用を適切なものとすることがひとまず有効であろう。しかし、特別支援教育支援員を特別支援学校・学級への予算配分と別枠で運用する場合、特別支援教育支援員の増員措置は、ある水準まで達すると、支援費制度に対して喧伝された「青天井」論を招く可能性もないとはいいきれない。それに対して、特別支援教育への財政配分一般の中に支援員への財政措置を位置づけ、一体として把握したり運用したりする枠組みを作れば、それは通常学級への就学と支援員配置が、負担の純増では必ずしもないことを明らかにし、より円滑に支援員制度を拡大できるかもしれない。その枠組みを国庫支出金で実現するのか、他の方法で実現するのかはこれからの検討課題としたい。  以上のことを検討しながら通常教育における支援を拡大していくことは、冒頭で述べた二つの包摂観の両立可能性を高めていくことにつながるだろう。それは個人の選択権の保障という観点からも、場の統合による連帯の促進という観点からもより包摂的な教育を創出していくことになる可能性を有している。しかし、ここで留意しておく必要があることは、統合された場で人的支援を活用することが常に包摂につながるわけでは必ずしもないかもしれないということである。宮崎[2004: 101-106]は、学級定数減や支援教員・介助者などが障害児につくと、その障害児を担当する「係」となってしまい、周囲の子供がその障害児に接する度合が著しく下がってしまう実態を指摘している。特別支援教育支援員が障害児につくことは、支援員以外の生徒や担任などの関係者が直接障害児と関わり、理解や配慮を育てていくことを阻害する可能性も有しているのである。必要な支援を提供している点では投棄ではなくとも、周囲の人々が関わる機会を減少させ、支援員任せによる無配慮を強化するようであれば、これはある意味では投棄でさえあるかもしれない。  そうかといって、通常学校・学級で学ぶためには人的支援を必要とする生徒がやはり存在する以上、条件整備も行う必要はあるだろう。教育資源の配分とともに、障害児に対する周囲の生徒の関わりを適切な形にしていくような現場での実践が最終的には必要になってくるだろうと思われる。 苅谷剛彦(2009)『教育と平等』中公新書。 清水貞夫(2003)『特別支援教育と障害児教育』クリエイツかもがわ。 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