■閉会の辞 東京の障害者運動──金井闘争をふりかえる 市野川容孝  2日間、ハードなスケジュールの中、障害学会・第7回大会にお付き合いいただき、皆さん、本当にありがとうございました。 今年度の大会は、初日の朝9時30分から一般研究報告を開始し、合計で18の壇上報告をプログラムとして組ませていただきました。壇上発表の数は、これまでで最大です。  学会員の数も年々、増え、大会での発表希望数も増えていますが、障害学会では、情報保障の観点から、他の学会のように、多数の分科会を同時並行で設けるということが、大変、難しいです。今大会も、当初は、2つの分科会方式の可能性も検討しましたが、やはり実現が難しいとの判断に至り、例年どおり、一会場のみでの大会とさせていただきました。そのため、例年以上に長時間のプログラムとなってしまったことを、大会長としてお詫びしますが、学会員の皆さんの希望には、最大限、応えられる形にしたつもりではおります。  まず、この場をお借りして、今大会を支えていただいた皆さんに、大会長として深く感謝申し上げます。 手話通訳の中嶋さん、宮原さん、伊藤さん、藪本さん、性全さん、荒井さん。また、パソコン文字通訳にあたって下さった、ユビキタスの勝野さん、照木さん、金沢さん、米倉さん、永野さん、尾崎さん。また、大会運営全般にあたってくれた、東京大学ならびに日本女子大学の学生の皆さん。また、すでにご帰国の途につかれましたが、特別講演をいただいたコリン・バーンズさん。また、掛け値なしにご多忙であろう中、シンポジウムにご登壇いただいた東俊裕さん。そして最後に、今大会にご参加いただいた学会員、非学会員の皆さん。──大会長として至らぬ点が多々あったこと、お詫びするとともに、皆さんに深く感謝申し上げます。  さて、皆さんも、さぞお疲れでしょうから、これで閉会としたいところですが、大会長として、最後に短く、「東京における障害者運動──金井闘争をふりかえる」と題して話す時間を、少しだけ頂戴できれば幸いです。  東京での大会開催ということなので、バーンズ先生をお招きしてのシンポジウムとは別に、私個人は、大会長として「東京の障害者運動」をテーマとしたシンポジウムをもう一つ、もてれば、という希望をもっていましたが、最終的には、それよりも、壇上報告を希望されている方々に、その機会を提供することの方を優先させ、このもう一つのシンポジウムの方は断念しました。しかし、何もしないというのは心残りなので、少し長めの「閉会の辞」として、金井闘争にふれさせていただければと思います。  今大会は、深田耕一郎さんの、府中療育センター闘争に関する発表から始まりました。その最後に、金井闘争を皆さんとともに想起することで、私の当初の希望は、少しかなえられるかもしれません。また、日本の障害学は、日本の障害者運動と乖離しているのではないか、という東俊裕さんの手厳しいご批判にも、少しは応答できるかもしれません。 しかし、そうは言いながら、金井闘争について、何かを語る資格が、私にあるとは思っていません。私自身は、金井闘争に関わった人たちの背中を見ながら、1985年に一介助者となった、言わば「遅れてきた人間」にすぎません。お顔を何度か拝見したはずですが、金井康治さんとも、個人的に面識があったわけでもなく、一介の傍観者にすぎません。──しかし、それでも、東京で開かれる障害学会の年次大会を、大会長としてお引き受けしたからには、大会のどこかで金井康治さんのお名前にふれなければならない、という義務感に近いものを感じています。金井闘争は、それほどに大きな出来事であり、私自身、その大きな渦の端の端にいたし、今もいると思うからです。  金井康治さんは、1999年9月11日に、30歳の若さで亡くなりました。今ご覧いただいているのは、その時の朝日新聞の訃報記事です(1999年9月14日付・夕刊)。後半部分を読みます。「脳性まひの障害児として生まれたが、八歳のとき、養護学校から普通学校の足立区立花畑東小学校への転校を希望し、自主登校などの運動を展開した。障害児が普通学校で学ぶことを求める全国的な運動の先駆けとなった」。──多くの人が、金井康治さんの名前を、そのように記憶していると思いますし、ここに書かれていることも事実だけれども、この数行では到底、汲み尽くせない、様々なことがあることも事実でしょう。  次のスライドは、1980年3月刊行の雑誌『福祉労働』の第6号、そして翌81年3月に刊行された第10号の表紙です。第6号の方は、80年3月9日に日比谷公会堂で開かれた「金井康治君の転校を実現する全国決起集会」のときの金井さん。当時10歳。右側の第10号の方は、その翌年ですが、車椅子にもたれながら、楽しそうに笑っている金井さんです。  次のスライドは、同じく『福祉労働』第6号の扉絵の写真です。2枚あります。「戒厳令下の転校闘争」と題された左側の写真は、養護学校から普通学校への転校を認めなかった、当時の足立区の、区役所前です。鉄柵が設置され、向こう側には警備する区の職員が、手前には車椅子の金井さんが写っています。その右側の写真は、先ほどの「全国集会」の様子です。この集会には、全国から1,000名をこえる人びとが参加しました。手前には、「全障連」のゼッケンをつけた、車椅子の人たちが大勢、写っています。  金井さんが亡くなる一年前の1998年に、皆さんもよくご存じの、乙武洋匡さんの『五体不満足』が出版されました。その最初の方に「重い扉」と題する章があって、そこでは、乙武さんが、お母さまの頑張りもあってこそですが、希望どおり、世田谷区立の普通学校、用賀小学校に入学できたことが書かれています。  私の介助者仲間で、先ほど私が「その背中を見ながら」と言った人の一人である斉藤龍一郎(りょういちろう)さんが、その頃、こんなことを言いました。乙武さんは1976年生まれですから、彼が小学校に入学するのは83年ということになりますが、「乙武君のこの入学の前提として、金井闘争があったということ。そういう、つながりが全然、書かれていないのは、おかしいよな」。 金井闘争の最中の1981年4月、当時の鈴木善幸首相は、参議院の予算委員会で、障害をもつ子どもの就学については、「本人や親の考えを十分聴き、斟酌することが大事であり、教育委員会は養護学校への入学を強制すべきではない」という主旨の答弁をしています(朝日新聞、1981年4月2日付)。1981年は、言うまでもなく、「完全参加と平等」をうたった国際障害者年であり、そういう外からの圧力が鈴木首相のこの答弁の背景にあったことは確実ですが、他方で、金井闘争は、日本社会の内側から紡ぎ出された力だったと言えるでしょう。  金井闘争が切り開いたのは、何だったのか。──まず、行政にいる専門家。次に、親。そして最後に、学校に通う当の子ども、という決定の順番をひっくり返して、最後の者を、最初にする、そういう思考の転換がもたらされたと言えるでしょう。マタイによる福音書(20章)の、よく知られた言葉を借りるなら、「最後の者が最初になり、最初の者が最後になる」ということです。 同時に、分離や隔離ではなく、統合という理念を、主流へと押し上げていく大きな原動力に、金井闘争がなったことは、言うまでもありません。  本日の一般研究報告で、徳永恵美香さんは、現在の日本の「特別支援教育」と、「インクルーシブ教育」の相違点を強調されました。特別支援教育は、インクルーシブ教育とは異なり、依然として分離教育を原則としている。また、障害のある子どもと保護者の選択権が、十分に保障されていない。──金井闘争から30年が経ちますが、徳永さんの発表は、金井闘争で提起された理念が、日本ではまだ十分に実現していないことに、あらためて私たちの注意を促すものだったと思います。  加えて、徳永さんは、現在の特別支援教育の枠組は、口話中心であり、手話を一つの言語として認めた上で、その教育機会を提供する形になっていない、とも言われました。差異の平等な尊重をともなわない統合は、抑圧を再生産するということに注意を促す、重要な指摘だと思います。  金井闘争は、2010年の私たちの現在の、その前提を形作るような大きな出来事の一つだったと思います。しかしながら、この出来事は、他の出来事と比べて、対象化されて語られることが少ないように私は思います。誰が何を言っても、重要なところで、どこか間違ってしまう、あるいは、重要な何かを言い落としてしまう──金井闘争については、誰しもが、どこかで、そんな思いを抱え込まざるをえないのではないか。それは、金井康治さんの早過ぎる死と関係しているのかもしれません。  傍観者にすぎない私の言うことが、おそらく一番、間違っているのかもしれませんが、いくつかのことを仄聞しながら、私が一つだけ思うのは、「金井君は、自分らしく生きられたのだろうか」ということです。生きられたと考える人もいるし、そうではないと考える人もいる、ということだけは、知っています。  そんなことを、先ほどの斉藤さんに言ったところ、「自分らしく生きると言うけど、人間、誰しも、真空で生きているわけじゃない。最初から、自分らしい自分が、存在しているわけじゃない。どういう関係の中で、生きているのか、どういう関係の中で、その自分がつくられ、また変わっていくのか、それを考えなきゃダメなんだ」とたしなめられました。  恥ずかしながら、私は初耳でしたが、コリン・バーンズ先生の講演を通じて、日本語で「自立生活」と訳されることが今でも普通の「IL」の「I」に見出されるべきものが、「イン」ディペンデントではなくて、「インター」ディペンデントだということを教わりました。金井闘争に関わってきた斉藤さんが言わんとすることも、そういうことなんだと思います。 語るべき資格がないと言いながら、おそらく間違っているであろうことを、金井闘争についてお話ししました。東京大学という、選別システムの頂点のようなところで教員をやっている私が、そもそも金井闘争について、何かを言える資格があるのか、とも思います。  しかし、私は語らなくてはならないと思ったし、資料集を編集しながら、目を通させていただいた、この大会でのすべての発表において、今は亡き金井康治さんと、金井さんを支援した多くの人たちの取組みのことを想起しないではいられませんでした。  ご静聴ありがとうございました。  気をつけてお帰りください。 【文献】 『福祉労働』第6号(1980年3月25日発行) 『福祉労働』第10号(1981年3月25日発行) 『金井康治によせて』(SSKR・ジョイフルビギン別冊)1999年