■S−2 障害学と障害者政策──日本の課題 東俊裕(内閣府障がい者政策改革推進本部室室長) ■ 私は、現在内閣府に設けられました障がい者制度改革推進会議の担当室の室長をやっております東俊裕と申します。もともと弁護士と障害者運動の2本立てで長らくやってきましたが、3年間ほどは大学の教員もやっておりました。しかし、民主党政権になってから、障害者権利条約の批准のための国内法整備を大きな目的として内閣総理大臣を本部長とする障がい者制度改革推進本部が設置され、そのもとに障害者が参画する障がい者制度改革推進会議を作る際に、この会議の担当室を受け持ってくれないかというお話がありました。迷いもありましたが、従来の在野の立場を捨て、現在、政府の中で、障害者や関連団体の意見の取り纏めをしております。 ■ 推進会議は、今年の1月から現在まで、障害者の生活に関連する分野のほとんどにわたり、審議を行い、6月には、第1次意見というものをまとめまして、これを推進本部に提出しました。内閣は、それを受けて、「障害者制度改革の推進のための基本的な方向について」と題する閣議決定を行っているところです。 この閣議決定は、制度改革の工程表でありますので、全省庁は、この閣議決定に示された事項について、一定の期間内に具体的な結論を出して制度を改革せよという拘束を受けるということになります。  その工程表の中でも、3本柱と言えるものは、障害者基本法の抜本改正と差別禁止法の制定、それと現在の自立支援法に代る総合福祉法の制定です。これらは、障害者の生活に横断的にかかわってくる分野として非常に重要であるわけですが、就労や教育などを含む11の個別分野についても改革に向けた工程が示されております。 ■ 今日は、その内容の解説をすることが私に求められる役割ではないと思いますので、障害学の基本的テーマと関連する部分や、日頃障害学について感じていることなどについてお話をするつもりです。  ただ、これからの話は、推進会議の担当室長の立場ではなく、全く個人の立場からの発言です。しかも、私は、障害当事者の運動家はあっても、障害学の専門家ではありません。専門は法律ですし、実務家ですので、障害学で高名なコリン・バーンズ教授の前で、適切な発言ができるか、はなはだ心許ない限りですが、学者というより、運動家または弁護士という立場から、具体的には、主に4点について、発言をしたいと思っています。  第1は、日本における障害者運動と障害学との関わりについて、  第2は、運動側へのフィードバックの在り方について  第3は、障害者の人権確保に視点をあわせた社会の構造分析のための手段や指標の開発の必要性について、  第4は、法律学と障害学との関係について、の4点です。 ■ まず、第1点目の日本における障害者運動と障害学との関わりについてお話をします。 世界の障害者運動は、大ざっぱに言うと、第2次世界大戦以降発展してきたわけですが、各国の障害者運動は、同じスピードで、しかも同じ課題を追求しながら発展してきたというより、その国々の政治体制や、経済状況、一般に補償される権利の状態、社会的風土、国民性などを背景として、それぞれ異なった立場や課題、運動形態を伴いながら、現状を改革してきたものと思われます。  それらの様々な運動には、その運動を正当化ならしめるそれぞれの理念や理論的根拠が必要ですし、運動の進化が新たな理念や理論的根拠を提供することもあるわけです。ところが、残念なことに、日本の障害者運動はそれ自体として、障害学が主張するような理論的な根拠を自ら意識的に生み出すことはありませんでした。ですから、日本の障害学は外国の新しい学問として、紹介され、輸入されました。 従って、日本の障害学は外国の文献研究をベースに発達してきたことに間違いはないでしょう。このように理論の生成時における運動的な基盤を有しなかった日本の障害学は、その後も、障害者運動との直接的な関わり合いが少ないというのが全体的な傾向だと感じております。  ですから、障害学において、いくら最先端の議論をしていても、それが運動の末端まで浸透するのは、非常に困難な状況にあります。障害の社会モデルという障害学の基本テーマでさえ、日本の障害者のリーダー層に浸透し始めたのは、障害者の権利条約の策定プロセスに参画するようになってからであり、地方の運動のリーダー層に広まってきたのは、つい最近のことです。運動の平場においては、「障害学ってなあに?」程度の認識でしかないと思われます。例えば、日本における差別禁止法制定運動が、日本の障害学に携わる専門家から問題が提起され、その理論に基づいて、維持発展してきたとは言えない現状にある訳です。 運動家としては、このような状態は非常に悲しいことですし、もったいないことだと思っています。運動側にも専門家側にもこのような状態を解消する具体的な努力、例えば、組織的な連携に向けての模索といったものが、求められていると思っています。 ■ そこで、第2点目の運動側へのフィードバックの在り方についてですが、このような障害学の浸透状況に対して、日本では、国際生活機能分類(ICF)が、リハビリなどの専門家の間では、急速な広がりを見せております。しかも、ICFというグローバルスタンダードを武器に、リハビリテーションの再生が図られようとするまでに至っております。ところが、運動側では、社会モデルといった基本的な考え方でさえ、共通の理解がなされているとはいえない状況です。障害学においても、必ずしも、見解の一致をみないところかもしれませんが、共通できる部分だけでも、学会見解として、一定の共通見解といったものを示すということが求められるのではないでしょうか。  社会モデルが、障害者が受ける社会的不利の原因を明らかにし、障害者が自分自身に対する自信や自尊感情を持ち得るために、大きな力を与えてくれるだけではなく、運動の課題や方向性を明らかにする上で、非常に有用であるだけに、社会モデルのコアの部分だけでも、運動側に分かり易く伝える手段を障害学の立場から提供して頂ければ、有り難いと思っています。  私自身、社会モデルというものを分かりやすく説明しようといろんな試みをして参りました。例えば、車いす利用者の社会参加という面では、建物や公共交通機関の発展の歴史的な経緯の中から、障害者が社会的に排除されてきたということは分かりやすく説明できると思っていますし、視覚や聴覚障害者の情報アクセスという面では、人類が言語や文字を取得し、様々な通信機器を発展させ、あるいは、文字媒体の利用形態を発展させてきた歴史的な過程から、彼らが排除されてきたことも分かりやすく説明できると思っています。  しかし、知的障害者の労働市場への参加という面では、労働力が商品化される過程において、社会的に排除されてきたということも、ある程度説明可能ですが、これが、一般の方にもすんなり分かってもらえているのかどうか、また、精神障害者の場合、偏見という社会的態度が大きな障壁となっているということは言えても、もっと分かりやすいような形で説明がないものかといつも悩んでいます。  どのような障害であれ、社会モデルが普遍的なものであることを、難しい理屈や言葉ではなく、問題の本質を象徴するような、しかも、分かりやすい事例を使って、誰もがすんなりと納得できるような説明手段を開発しなければ、運動の世界に浸透することは困難です。ですから、そのような視点で、障害学の成果を運動の側にフィードバックして頂ければと思っているところです。 ■ 第3は、少し大げさな話になりますが、障害者の人権確保に視点をあわせた社会の構造分析のための手段や指標の開発の必要性について、です。  全く私の個人的見解ですが、環境因子というものを取り入れたICFにしても、個人の健康状態を把握するという個人分析の手段であると思っています。しかし、個人の人権状態は、いくら個人を分析したところで、その状況は分析できません。人権の問題は、その個人ではなく、むしろ個人を取り巻く社会的な環境の分析に主眼を置かなければなりません。そのような意味で、ICFは、人権保障の分野までのカバーする共通の言語と言うことには、大きな躊躇を感じる次第です。  やはり、障害者の人権の確保には、社会の有り様や構造といったものを分析する世界共通の手段や指標といったものが、障害学の視点から必要ではないかと思う次第です。ところが、ICFは、分析の対象を個人に向けたものではありますが、誰でもが分析できるような形で、その分析の方式を明らかにし、それを武器に、リハビリテーションの有用性を説いています。それはそれで重要なことだとは思いますが、しかしながら、それだけでは、人権を確保する上では不十分だと私は感じています。やはり、障害学の視点で、社会の抑圧的な構造を分析する視点や考慮すべき要素を明らかにして、人権の状況を明らかにする共通の手段や指標、いわば、ICFに対置できるだけの障害者の人権を確保するための世界共通の社会構造分類といったものを、世界の障害学に携わるものの手によって作り上げるべきではないかと思う次第です。  これができれば、どの国に住もうが、どのような障害者であろうが、その個人の人権状態を客観的に分析できることが可能となり、運動の課題といったものを明らかにできることになると思われます。そういった意味で、是非とも世界の障害学の専門家に、社会の抑圧的な構造を分析できる世界共通のツールをいったものを作って頂きたいと思っているところです。 ■ 最後の第4は、このたびの障がい者制度改革を行う上での問題と密接に絡む問題ですが、法律学と障害学との関係についての悩みをお話したいと思います。  私は、20年近く弁護士をしてきましたので、それなりに障害者のかかわる裁判をして参りました。しかし、日本の障害に関連する法律の中に、権利を保障する法律がございません。障害者差別禁止法も、障害者虐待防止法もありませんし、地域で暮らす支援サービスについては、権利性がきわめて弱いものでしかありません。このような状態では、最後の救済手段である司法の場面でも、思うような結果を残すことできません。  そもそも、障害者の人権というものは、社会モデルの視点で社会を分析しなければ、見えてきません。社会モデルの視点に立ってこそ、障害者に対する差別を禁止する必要性が見えてきます。そこで、社会モデルの視点を踏まえて、人権にかかわる法体制を構築する必要があるわけですが、社会的障壁を解消する手段として法律という手段を採用する場合、法律という手段の特性を考慮しなければなりません。法律では、一定の法律的な効果が発生するためには、一定の法律上必要とされる要件を満たすことが求められます。 例えば、差別禁止法というものを考えるとき、「障害」として証明の対象となるのは、結果としての「社会低不利」や「社会的不利」を引き起こす原因となる「偏見」や「社会的排除」などの存在ではなく、相手方の差別行為が「障害」に基づくと言えるか否かという点です。  ですので、社会モデルが障害を定義するときに用いられる、障害者に対して否定的な社会の構成要素は、法律要件としての「障害に基づく差別」に位置づけるのではなく、その法律要件が満たされた場合に、違法と評価される対象に位置づけられることになります。 でなければ、障害に基づく差別が、例えば、「社会的排除に基づく差別」ということになりますが、これでは、トートロジー的であり、法律要件としての意味を失います。  また、差別禁止という法概念において、一般的な差別禁止というレベルまで至っておりません。人種差別禁止とか女性差別禁止などのように、属人的要素を抜きにした差別禁止というものはありません。従って、障害に基づく差別という場合の障害の定義から属人的要素を切り取ってしまうことは、困難であるといわざるを得ません。  又、法律は一定の目的のために制定されます。従って、障害の定義もその目的によって、相対的に意味内容を異にすることが予想されます。例えば、差別禁止法にいうところの障害は、簡単にいえば、差別の対象となる可能性に力点を置いてその定義を考察することが求められますが、自立生活支援のための社会サービスを目的とした法律では、社会サービスを必要とする障害に力点を置くことになり、結果として違った定義になるという、定義の「相対化」といった現象が生まれると思われます。そのような意味では、障害学で一義的に定義化された障害とは異なることもあり得ると思っています。 このように、障害学が要求する障害者の人権の確保という課題を法律の世界に求めようとするときには、障害学とは違った法律学の土俵にたった議論が必要ではないかという問題点があります。社会モデルをすんなりと法律の世界に投影することはできないのではないかという点で大きな悩みを抱えているところです。皆さんにも、その点ご検討頂ければというところです。 私の話は、以上です。ありがとうございました。