■6−3 障害者の芸術表現とポジショナリティ ──共同作品制作における価値判断をめぐって── 長津結一郎(東京芸術大学、日本学術振興会特別研究員) はじめに  障害者による表現活動は、社会に与えるインパクトの強さから、こんにち美的価値の非常に高いものとして位置づけられるでしょう。また、純粋に鑑賞的享受としての価値だけではなく、共生社会における新しい福祉のあり方の提示など、芸術の社会的な展開に資する分野と言えます。発表者はこ れまで観察者として、また時には実演家としてこうした事例に関与してきておりますが、これまでの療法的な側面や、福祉的な側面、余暇活動としての意義などを越え、クリエイティブな刺激を求めてアーティストが積極的に障害者と関与していく例も増加しています。  本発表では、日本における障害者と表現についての近年の展開を概観し、こうした活動が障害当事者のみならず多様な人々の関わりを促している点に着目します。そのうえで、発表タイトルにもありますポジショナリティの問題について考察し、実際の芸術表現の事例の検討手法として用いることで、今後の課題に向けて考察したいと考えております。 1.障害者と表現についての近年の展開  まずは、日本における障害者と表現についての近年の展開を概観します。  1990年代以前の日本において障害者による美術表現は、メディアが取り上げ賞賛したものや、ごく一部の先進的な活動を除いては、ほとんどが福祉施設の余暇活動として行われ、作品の保存もままならず、正当な評価がされてきませんでした。この状況は1990年代に、世田谷美術館での大規模展覧会の実施や、作品への顕彰や制作支援などの諸活動によって改善されます。このような活動の結果、国や地方自治体も近年この分野に着目しています。「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」とされる障害者による表現は、美術の「インサイダー」たちにも着目されてゆき、美術系の雑誌に特集が組まれるのも珍しくなくなりました。  一方舞台表現活動では、1983年より活動を開始した「劇団態変」の衝撃がまず挙げられるでしょう。旗揚げ公演『色は臭えど』を皮切りに現在まで活動を続ける彼らは、障害者の身体とその日常を抽出しリアルに加工することで、健常者がヘゲモニーを握るこの社会を挑発する手段として演劇の手法を用いたのでした。また2000年代以前には「デフ・パペットシアターひとみ」「みやぎダンス」などが活動を開始し、それぞれのフィールドで活動を展開してきました。また、スポーツ分野の活動ではありますが、障害者プロレスなども話題を集めています。障害者同士のプロレス興行が現在でも年1〜2回開催され、健常者対障害者などといった対戦カードも組まれています。劇団態変同様、倉本による整理によって「差異派」として障害学の分野でも紹介がなされました。  1995年には芸術を通じて障害者の「障害」ではなく「可能性」に着目し、社会の価値観を揺らがせることを目指した概念「エイブル・アート」が提唱されます。障害のみならず、現代社会が抱えるさまざまな問題や生きづらさなどを解決する手段としてのアートを探求しようと試みる運動として大きく広がりを見せました。また近年では、小暮らが2008年に「アウトサイダー・ライブ」という概念によって、障害者による舞台表現活動の再定義を試みています。 2.(「障害/健常」などの)境界線――重層性と相対性  そうした背景のなか、私が本発表で着目するのは、こうした表現の現場における多様な人々同士の関係性や、ポジショナリティの問題です。  障害者を含むコラボレーションの現場においては、さまざまな立場の人々が混在しています。障害当事者、その支援者、家族、芸術家、アートマネージャー、見学者...。こうした現場においては、それぞれの立場への疑問が生まれます。障害者がステージに上っているだけで拍手をしなければならないのか? 「障害者にも理解できる」、もしくは「障害者を支える人たちに喜ばれる」表現を作らなければならないのか? そして、完成した作品は誰のものと言えるのか?  こうした疑問は、他者とのかかわりの上で表現を生みだす中では必然的に生みだされるものであると言えます。そして、この立場の差異から生まれる逡巡が創造の現場におけるひとつのエネルギーとなるのです。吉野さつきは「作品のクオリティを問うことは障害のあるなしとは関係ないと言いつつ、でも障害の独自性があるからこの新しい表現は生まれたんじゃないかと言ってみたり。じゃあ障害のある人はみんな素晴らしいのか、と言うとそうじゃないと言ってみたり、常に反転を繰り返しながら何かを問い続けている感じ。それはつくる側も見る側も関わる人すべてに、常にいろんな問いが投げかけられている」と述べていますが、こうした「反転」に着目していくことは重要な点です。  そもそも人々の間には、その立場ごとに「健常/障害」などの、何者かによる抑圧がもたらすような「境界線」が存在していますが、その構造は、「障害/健常」という単なる二項対立にとどまりません。  ひとつには、その境界線はときに重層的です。「障害/健常」という線引きがなされたとしても、その障害の中にも「知的障害/身体障害/精神障害...」などといった障害の区分、また「男性/女性」といった境界線があります。また、「在日外国人である障害者」「セクシュアル・マイノリティである障害者」などといったダブル・マイノリティの問題も関わります。  そしてこうしたマイノリティの姿は、常にマジョリティによって可視化されます。フェミニズムの歴史をたどっても、「主体」として語られるのは長く「男」であったことからも明らかなように、マイノリティの存在は常に相対的なものです。 3.「境界線」とポジショナリティ  そのうえで重要な点は、こうした「境界線」は、ひとつの断絶した壁ではなく、常に揺らいでいるのです。そしてときにその境界は、ずらされ、つなぎかわるものなのです。その上でのポジショナリティについては、以下の考えに沿って検討することが有効でしょう。  石川准は「平等派/差異派」の議論について次のような議論を展開しました。障害者は能力や技術を身につけたとしても社会が平等に扱わないため差別されているものであると位置づけ、「統合要求を強調せずに自文化の構築・再評価を目指したのでは(略)障害者を排除するつもりであることは再び隠されてしまう」としました。その上で、平等派として同化主義を推進することと、差異派として自文化を構築しつつ社会の障害者を排除する構造を隠匿すること、どちらかを選ぶという「引き裂き」=「悲の場」性は「理不尽なこと」と述べました。  ではどうしたら良いのか。石川は「社会が押しつける図式に従順に従ってどちらかを選ぶのではない道、〈異化&排除〉にあまんじず、戦略的な拠点としての〈同化&排除〉にひとまずとどまって〈異化&統合〉をめざし続ける道、どちらかに生き方を純化しないという戦略が有効」と述べます。すなわち、異なったままで同じ場所に居合わせ、社会のコモンセンスをも変容させるために戦略的本質主義的な立ち位置を取ることが有効であることを示唆したのです。  また研究における当事者/非当事者をめぐる議論では杉野が「個人的な「足を踏まれた痛み」をどこまで社会的抑圧として描けているかということに尽き」、障害者/非障害者、また抑圧する者/される者というとらえ方ではなく、「個々の研究の内容をトータルに吟味してしか判断できない」と述べています。また近年の議論では、ポストコロニアリズムなどから発展させて宮地が「環状島」というモデルを提起していますが、その著書のなかで、当事者とは一線を引いた先にある、非当事者や研究者などのポジショナリティについて言及している点は興味深いと言えます。  いずれにせよ、障害当事者以外の人々を巻き込んだ活動においてはこのように、必然的に「境界線」を意識せざるを得ません。その上で、それぞれの置かれている状況そのもののレッテルごとに活動の方向性を分割させることではなく、異なったままで同じ場所に居合わせるという点を重要視していくポジショナリティが有効であろうということをここまで述べてきました。 4.芸術表現と「境界線」 (1)「ゆるく」連帯することを促す表現  ではその中で、芸術表現はどのように機能するのでしょうか。  社会的抑圧や「境界線」が現前している中で生まれる芸術表現は、蓄積した多様な記憶を昇華します。芸術活動における社会包摂的な取り組みは、障害という問題以外の領域にもさまざまに広がりを見せています。芸術家とお年寄りとの関係性が芸術活動を通じてゆらぎ、相互に作用する演劇を制作する北海道・富良野の事例や、芸術家とお年寄りのこだわりの応酬の末に生まれる、いつまでも完成し続けないラディカルな「共同作曲」に取り組む野村誠の事例などは代表的ですし、議論の領域をやや越境しますが、新宿二丁目では「HIV陽性者/HIV陽性ではない非異性愛者/異性愛者」という関係性に「Living Together」(=一緒に生きている)というキーワードを与えて「ゆるい」連帯を目指すような音楽イベントもなされています。  このような取り組みの意義を整理すると、そのまま伝えるとあまりにストレートで伝わらない言葉や事実を、記憶の積み重なりや、多様な声として紹介していく点が、芸術表現のひとつの強みであるとも言えるでしょう。近代的なアクティヴィズムとは微妙に位置をずらした場所で、「ゆるく」連帯し、婉曲し、身体的に伝え、ときにはラディカルな表出をも成し遂げる芸術表現のあり方そのものが、「境界線」の様相そのものとの親和性を浮き彫りにします。 (2)問われ続けるポジショナリティ――マイノリマジョリテ・トラベル  そうした「境界線」と表現の関係について端的に表していたのが、「マイノリマジョリテ・トラベル」というユニットの活動です。  「障害を背負いながらも頑張ってパフォーマンスするのが美しい」といった福祉的な意義を称揚することへの違和感から、無自覚に使われている「障害」というタームが実は曖昧な定義なのではないか、と疑問を抱いた主催者たちは次のように考えました。すなわち、身体的・精神的な特徴や、文化的・社会的背景が「障害」となるのは、社会の構造がその特徴や背景を排除したものであるためで、障害/健常の違いというのは、ある意味極めて相対的なものであり、その枠組みを形作る境界線自体が本来流動的なものではないだろうか。そこで、その境界線の内と外を行き来する旅をおこない、そこから生まれるエネルギーを舞台作品にするプロジェクトを主宰することで、社会における全ての枠組みの相対性を示唆しようと試みたのです。  性同一性障害、アルコール依存症、摂食障害などさまざまな「障害」を社会に対して感じている人々を役者として集めて、粘り強いワークショップの末に行われた公演は、公共のバスを貸し切って行われるなど、個々の参加者のエピソードが交えられた刺激的な公演となりました。こうした面については別の論考で考察しておりますので詳細は省きますが、本発表で重要視したいのはそうした、いわば「毒性」ばかりではありません。「共同性」とも言うべき関係性の発露です。  役者たちはワークショップの休憩時間なども含めて、自分のバックグラウンドのこと、政治への不満、性の話題などをとにかくよく語るメンバーでした。自助グループであればお互いの思いを尊重するべく黙って聞いているべきものですが、ときには人の話を押しのけてまで会話がマシンガンのごとく進んでゆきます。そして結果的に、参加者たちが喋っていたことは、演出・脚色され、作品に取り入れられます。何十錠もの薬を床にぶちまける、車椅子がバスに乗ることができずに乗車拒否となってしまう、舞台上でただただ猥談を繰り広げる...。しかもそれぞれのエピソードは少しフィクション化されたため、役者たちを戸惑わせます。参加者に、自らのエピソードを自らに演じさせることで、場合によっては個人的であった問題に対する意思を問いかけるように仕掛けたのでした。  こうして生み出された表現において、「障害/健常」の境界線に基づいた表現ではなく、個々の「リアルな身体」が表出された、とする論評がなされたのは重要視すべきでしょう。彼女たちの「境界線」をめぐる考察のすえ生み出された表現活動は、一元化されがちな「障害者」像のレッテルを背負うのではなく、個々の多様性を内包させ、役者となったかれらひとりひとりの現在的意味を照射することに成功したのでした。また、観客からは「モヤモヤ感」「見世物小屋の「毒」」という反応が示されました。彼女たちは、これまでの概念では理解できないような「境界線」のありようについて、表現行為を媒体に提示することで、観衆にショックを与えることに成功し、自らの問題として思索をさせる機会として機能させたのです。 (3)関係性の昇華/作品性への回収  しかし実際には、「境界線」のゆらぎと芸術表現との親和性は、ときに牙をむく場合もあります。もうひとつの事例は、音楽療法や即興音楽を専門とする若手音楽家が民家を利用して、2007年より継続して行なっている、障害者や地域住民、音楽大学の学生などさまざまな人々とともに、その場で即興的に歌づくりを行ない続けるワークショップです。  この企画に特徴的なのは、音楽の制作という枠組みでありながらも、音楽以外のパフォーマンスや美術など多様な表現形態を「うた」と称していることです。あえて音楽という閉じた領域のみに参加者の表現欲求を回収することなく、多様な振れ幅を提供したことで、音程が正しく、美しく歌い上げるような模範的な「歌」を歌うことができない人にとっての「うた」を追い求め、その場に居合わせる人々でしかできない表現を生み出すことに成功しています。  しかし一方、場をファシリテートする芸術家たちにより、一旦は担保されたかに見えた多様性が失われる瞬間もまた生まれています。ワークショップで作った「うた」をCDに残す過程では、障害者自身の歌声を録音しながら音程の補正を行うなど「きれいに」したアレンジをして、「ちゃんと」演奏された状態で残し、多様ゆえに生まれるノイズは排除されます。  これは芸術家としての彼らの活動を記録していくための行為としての、芸術家をめぐる社会構造の問題点の一端を提起しているとも言えますが、芸術的表出を芸術家のみの価値観に回収してしまっているとも捉えられます。すなわち本事例においては、二面性、すなわち、ある種の「ゆるさ」を保ち続ける懐の深さが必然的に希求されながら、居合わせた関係性を作品に昇華していくが、しかし「芸術」的概念と「作品」性への回収への危険、ひいては芸術家による他者への搾取の危険性を常に孕む――が背反しながらも同時に進行している、という指摘ができるのです。 5.おわりに  これまで本発表では、日本における障害者と表現についての近年の展開を概観し、こうした活動が障害当事者のみならず多様な人々の関わりを促している点に着目しました。人々が線引きをする「境界線」は単純な二項対立ではなく重層的かつ相対的、流動的であることを指摘したうえで、それぞれの置かれている状況のカテゴリごとに考えるのではなく、異なったままで同じ場所に居合わせるという点を重要視していくポジショナリティが有効であろうということを述べました。  そしてその多様さ、突き詰めると「ひとりひとりの声」を、柔軟な形でゆるく表出させることができるのが芸術表現の強みであり、また役割であろう、と述べてきました。しかしそこにもなお、その場における強いものと弱いものは分けられ、権力構造は生みだされ続けるのです。最後にご紹介した2つの事例は、いずれも観客および周辺の支援者からは一定の芸術的評価を得ている活動でありますが、「障害/健常」の境界線にとどまらず、その場に居合わせる人々の、実に多様な在り様を、そのままでいかに担保するかという点については対照的な結果となっていると言えるでしょう。  近年、芸術による社会包摂的な取り組みが近年隆盛しています。しかしその多くは、実現可能な社会変革への道筋を絶ってしまい、芸術家の論理のみに基づいて無目的にただ一緒に何かをやる、という現実も多く目の当たりにします。しかしそうではなく、こうした活動は、目の前にいる「あなた」と「わたし」のあいだ、そして「われわれ」と「わたし」のあいだにある差異に目を向けるところからはじまる、すべての関係性を問いなおす行為として行われるべきです。それでこそ、境界線をずらし、つなぎかえるような芸術表現活動が隆盛する意義があるのである、と言えるでしょう。 ※本稿は、障害学会第7回大会の詳細原稿として、情報保障の観点から提出するものです。実際の大会での発表において、多少の内容の差異が生じる可能性がありますこと、あらかじめご留意ください。