■4−2 高等教育における「学生支援」の射程と責任 ──「発達障害学生」から考える大学の存在意義── 山田裕一(熊本学園大学、菊陽町社会福祉協議会、障害学生パートナーシップネットワーク) 0.はじめに 報告者は2010年6月に行われた日本社会福祉学会九州部会において『高等教育におけるインクルーシブデザイン―大学における「発達障害等」のある学生の「コンフリクト」を考える―』と題した実践研究報告を行った。大学の教職員が、障害学生パートナーシップネットワークに相談に来た「隠れ発達障害学生」と授業等で「出逢った」時に抱いた印象と、同じ場面においての「発達障害学生」側の認識や語りをリンクさせ、両者の間に「コンフリクト」がおこるメカニズムの一部として、コンフリクトの「原因解釈のギャップ」について事例を通して説明を行った。そして、ギャップを埋める方法として「発達障害学生」の「認知の偏り」「こだわり」「思い込み」等「事実認識解釈」の相対化を支援すると同時に、教職員や他の学生の「発達障害学生」の行動や言動の背景にある「意図」を理解するような、「発達障害学生」の特性理解や受容の支援を行う必要性を主張した。さらに学生の個別的・多様なニーズを整理し、緊急性の高い順から、新たな人的設備的社会資源の創出が必要である旨の問題提起を行った。 発表後、「新鮮な切り口で大変参考になった」との意見がある一方、「重要性は理解できるが、義務教育ではない大学で、どこまで担わなければいけないと考えるのか?」等の疑問が呈された。報告者は私立高校や専修学校の教職員研修等の講師を要請されたときや、また他の学会の懇親会や大学院の授業においての発表、教職員や学生との個人的付き合いの中で、ことある事に「支援」が必要な理由や、実践を通した方法論について伝えてきたつもりであるが、「大学は幼稚園ではない」「発達障害者専門の学校を作るべき」等の反発があることも少なくなかった。 また、2009年障害学会第6回大会で『「発達障害」という存在から考える大学教育のインクルーシブデザイン――障害学生パートナーシップネットワークという活動から「見えざるバリア」を顕在化する』と題した研究報告においては、「障害学生支援」の延長線上で「発達障害学生」の支援を行おうすることで、『自立支援という名を借りて、既存の社会に適応させるための術を身につけさせることを「障害学生」の教育の目的としているという側面、つまり大学が「定型発達者中心主義社会」に追従したい成員を養成していることの問題提起を行った。 結果、「障害学生」に支援の申し出にかかるコストの負担と支援妥当性の立証責任が、学問へのアクセスとの引換券として機能していること自覚の必要性と、問題について議論を行う必要性について「対話」を求めた。  本報告においては、筆者が今まで経験した「発達障害学生」にまつわる大学の教職員の言動を中心に整理・考察し、多様化する学生の「支援妥当性」というテーマを媒介にし、大学の存在意義(レゾンデートル)について「対話」(ダイアローグ)し合う「起爆剤」としたいと考えている。 1.「発達障害学生」が高等教育教職員に与えるインパクト  「発達障害学生」の存在が「発見」されてきたことは大学にとって大きなインパクトであるとともに、彼らをとりまく様々な問題に対して大学がどう向き合っていくかが問われている。しかし、高等教育の現場の第一線にいる大学の教職員は「発達障害学生」をどうとらえているのだろうか。報告者がある大学院の授業において「発達障害学生」の現状と支援の必要性について発表したが、その時の教員Aは以下のような感想を述べた。 「大学教育の考え方をもう一度問い直して欲しいですね。先生の言われることが理解できないのなら自分の責任で勉強して来いと思います。高等教育機関で勉強する能力がない者は大学教育にそぐわないでしょう。別の教育機関の必要ではないのでしょうか。大学というものは特別なところで、高校教育の延長ではありません。教員の教え方が悪いとの議論はおかしいのではないですか。1」  今まで積み上げてきた専門的知識を惜しげもなく提供する教員の立場からすれば、落胆し失望してしまうのも無理はない。大学教育にアクセスできるのは、大学教育のスタートラインに立てるだけの能力を持った選ばれた学生であり、それに値しない学生は大学に来るべきではないという考えは、多くの大学教員が共感するのではないだろうか。更に別の授業で報告者の発表を聞いた別の教員も以下のように述べている。 「高等教育においては、多様な問題があって、問題を発掘する力、膨大な情報を処理する力、構想する力が必要なんだと思うなあ。あと夢を見るというか・・・夢を見るというのは創造する力ね。追い求めていく資質を持っているものを積んでいかなければならないし、常識や実務性積んでいなければならない。また膨大な情報の処理をしなければならないので持続力、吸着力がいる。高等教育は問題を発掘する力を育て、それを自力でつけ、自分で考えるというそういう段階のところだとおもうね。初等教育から高等教育までの一連の流れを考えると山に例えられると思う。高い山をつくっていくためには・・・例えば小中学校なら挨拶ができることであるとか中学校であるなら××であるとか・・・そこが達成できた前提での高等教育だと思う2。」 この教員は大学での学びに堪えうるレディネスについて教員なりのイメージを述べたのであろう。つまり、このようなレディネスが整ってないうちに大学での学びをスタートさせるのには非効率であり、大学とは別の教育機関で学ぶということがよりよい選択肢ではないかと言う文脈で述べたものだと考えられる。 このように、現場の教職員は「発達障害学生」が高等教育を受ける意義について懐疑的な教員も少なくないと推測される。また、報告者は学会、教職員研修、大学の授業等で大学の教職員と話をする機会があれば、報告者なりの「発達障害学生」に関する知見を伝えてきた。次にその際の大学の教職員反応を大雑把であるが、報告者なりに類型化してみた。 2.大学教職員の「発達障害学生」に対する認識 A.無知無理解群  そもそも「発達障害」というものを知らない、他の障害と混同している群である。「そんな人が大学にいるの?」という率直な驚きを表明することが多い。 B.無関心群 「障害学生」の問題に対して無関心の層である。この層はそもそも学生の教育自体に関して無関心であることが多い。ただ、近年「発達障害学生」の問題が新聞などのメディアでとりあげられ、徐々に無関心は減少せざるを得なくなると考えられる。 C.入学否定群  「発達障害」という概念をある程度理解したうえで、「高等教育にそぐわない」と考える層である。「その人に合った別の学校を作るほうが本人のためではないか」という主張もあり、高等教育にアクセスすべきではないという認識を持っている。 D.「障害」選別群  目の前の学生が「障害」どうかを知りたいと考えている群である。この群の大学人は学生の「障害」を知ったうえでの対応を考えているわけだが、対応の考え方は様々で、「可能な限り配慮や支援をしていこう」と考える教職員と、「障害」の状況によっては受講に条件をつけることや、授業の受講を断りたいと考える教職員まで様々である。 E.支援否定群  障害があったとしてもあまり「支援」をすべきではないと考えている群である。例え、「障害」があっても、基本的にどのような学生に対しても授業の仕方や評価の方法を一切変えないという方針を示すことが多い。 F.障害理解・支援模索群 「発達障害学生」について理解をし、「可能な限り」支援をしていこうという群である。「発達障害学生」のよりよい支援が行われる出発点となる可能性を秘めている群でもある。但し、この「可能な限り」の範囲はかなりの個人差があり、そのキャパシティーを超えた時、一転して支援否定群や入学否定群に変貌することもある。 このように大学人の「発達障害学生観」は様々であり、「高等教育観」もまた様々である。大学は「大学の自治」という歴史的文脈の下、多様な価値観やそれに基づく教育方針を持った人々が集まっている場所である。「発達障害学生」に対して多様な視点を持つ原因は「障害理解」というファクター以外に「高等教育観」「教育の平等性」への認識のズレが大きな要因となっている。「発達障害学生」が適切に高等教育を享受できるかに、多大な影響を与えることが推察される。 3.大学における「高等教育観」の混乱とメンバーシップによる大学教育 ではこのような「認識のズレ」はいかなるメカニズムで起こってくるのであろうか。それは「高等教育観」という文脈が、大学において混乱していることが大きな原因として挙げられる。 大学は学問を修める場であり、授業科目の成績はその成果を現していると一般的には考えられている。そして、「学士号」という学位を取ることがその集合的な証であるという「タテマエ」がある。また、大学は社会に出るためのレディネスを養う場でもあり、「大学卒」という学歴はその証であるという側面もある。そしてさらに高等教育観の混乱に拍車をかけているのは、職業に直結した資格を得ることにウエイトをおいた「専門学校化」した大学が増えてきていることである。 大学教員が学生の礼儀作法、社会常識、生活態度、コミュニケーション能力までも評価の対象に加え、その指導を行う必要があるかどうか、つまり「学生支援・指導の射程」の混乱が起こっているのである。教育の目標の優先順位が定まらず、教職員間で教育の理念が揺れ動く中で、「発達障害学生支援」の範囲やあり方をますます混乱させているのである。そこでは支援することが成長を阻害するのではないだろうかという支援妥当性への疑問や、学生を甘やかしては将来に影響するという「思いやり」、そして安易な単位認定は大学のネームブランドを汚すのではないかとの懸念が交錯している。 では、このような認識度や理解度の違いや、大学人の間の温度差を解消するにはどうしたらいいのだろうか。「発達障害学生支援」に関する研修会や講演会で決まって接尾辞に述べられるのは「教職員の意識啓発」という言葉である。現に大学教員のFD(ファカルディーデベロップメント)の分野で「発達障害学生」を射程においた授業のあり方を模索しようという動きもある。無理解による偏見を低減する事で、「発達障害学生」へのまなざしが変化し、よりよい支援やよりよい教育が模索される可能性があることは否定しない。しかし、このような啓発活動に終始することは大学の教職員の反発やバーンアウトを招くという副作用も見逃してはならない。愛媛大学でFDを担当している佐藤(2007)はFDを推進する難しさの一つとして次のような教員の心情について述べている。 授業中に一生懸命説明しているのに、学生は私語やメールのやりとりに夢中だったり、授業アンケートの中で学生から「おまえなんか教員を辞めてしまえ」とか「こんな授業を受ける意味なし」といった言葉を投げつけられたりという経験を持っています。私もこの仕事に関わってから、学生の心ない言動に傷付いている教員が想像以上に多いことを知りました。こうした教員はこれ以上傷付きたくないために、学生との間に壁をつくり、高圧的な態度に出てしまいがちです。そのため学生との間に溝が生じ、授業がうまくいかなくなるのです3。 報告者は障害学生パートナーシップネットワークの活動において教職員の話しを聞いた実感として思うのは、大学の教職員には「発達障害学生」に対しての理解や支援を行おうとする萌芽があるのにもかかわらず、大学全入時代の今日、大学は、学問を修め、普遍知を身につけ社会に還元するといった本来の目的の他に、社会の一員になるための高等教育、専門家養成のための高等教育といった社会の要求定義に応えざるを得ない状況下におかれている。そのような状況の中で、「発達障害学生支援」は、「障害理解・支援模索群」に属する大学教員、学生相談員や障害学生支援コーディネーターの強い熱意と個人芸で支えられている現状がある。  長野(2006)は、FDという革新的であるはずの取り組みが、教育実践の枠組みを作って、その枠組みに組織メンバーを動員する「政策の教育」のもとで行われる「メンバーシップFD」となりがちであることを指摘している。「メンバーシップFD」は大学教育の不備の部分である「修理箇所」を事後的に修理することは得意である一方、修理箇所を見つける責任をあいまいにし、教師個々のパーソナルな体験過程によって彩られる教育の本質が隠し、「自己点検はほどほどに」と釘を指されてしまうとの批判を行っている4。「発達障害学生支援」においても、個別的に意識の高い教職員が増えたとしても、メンバーシップを重視する大学組織の中では、その取り組みが埋没してしまう危険性をはらんでいる。 このように、大学教育の現場は現状の社会に適応するためのキャリア教育の台頭による「高等教育観の混乱」「メンバーシップ中心の政策の教育」が台頭しているために「発達障害学生支援」についての広がりが困難な様相をみせているのである。 4.「発達障害学生」の存在を前提としたパートナーシップFD的「高等教育観」の再考 大学教育においてのキャリア教育中心に舵を切る「政策の教育」は、大学全入時代の今日、大学間競争に生き残るための戦略が当然の如く優先される傾向にある。現状の社会が求めている人材を多く輩出することが「競争」という文脈において大学の価値を高めることにつながるからだ。大学を存続していく観点から、これはやむを得ない部分があるのは確かである。しかし、大学教育の役割は学生に社会人になるためのキャリア教育を施すことを第一義的な役割とするべきだろうか。長野(2006)は政策の教育の問題点について以下のように述べている。 政策の教育が後生に教える社会は、実状として、いわば陽の目をみている社会に偏っている。臨床の教育において、教師が学生とパートナーシップを結んで切磋琢磨して再々確かめるのは、深く意味のある懐疑や洞察は予期していなかったという意味での暗がりから立ち現れるということである。目的意識や夢が大切だとしても、新しい世代が現実の社会を担うためには、教育において、そこに閉じこもることが許容される暗がりが必要である5。 大学が「キャリア教育」の名の下に、現社会に追随する人材生産の場と化することは、新しい社会の創造を阻害することにもつながっていく。2010年に日本学術会議が出した「大学教育の分野別質保証の在り方について」ではすべての学生に市民として生きていくための基礎・基本」を身に付けさせることを求めている。ここでいう「市民性」とは、現社会に追従する一員となることではなく、社会の課題に対して、立場の違う人々と一緒に取り組めることを意図している。大学教育が最も重要とすべきことは、分野を問わず、学問を通じて「障害者」を含めた「異質」な人々が関わりあいながら、新しい社会を創造し続けていく「臨床の教育」に根ざすことではないだろうか。従来、「発達障害学生」が大学で発見されれば、大学における現行の制度やリソースでは対応できず、「異分子」として、排除されるか「支援」名の下に、既存の予定調和な社会に回収しようとする。しかし、「異分子」(と認識されるもの)と向き合い、大学教育の原点に回帰することによって、新しい社会を創造していこうとすることが「大学の存在意義」であると考える。 しかし、メンバーシップ中心の大学のあり方は、「発達障害学生」の存在を初めとした、教育現場内で向き合うべき「変革」に、向き合う力を弱体化してしまう。では、「変革」に向き合うためにはどうしたらよいのであろうか。 長野(2006)は教育にまつわる課題に取り組むにあたって、互いの意見や立場や教育観の差異をめぐる対話を保障する場として「パートナーシップFD」の可能性について言及している。具体的には1)「自分が何者なのか」を知っている、あるいは知ろうとしているかどうか 2)「私と同じようにやりなさい」と求めず、互いの間に見出される差異を尊重しているかどうか、3)第三の受益者が誰であるかの確認がなされているか、4)タテの関係を頼みにすることなく、パートナー同士が対等であるか、5)パートナー間でなされる対話がそのまま公開されたとしても責任を持てるものであるか、6)科学的検証が不十分な単なる慣習や心情もふくめて、確固たる信念や感情判断に潜んでいる危険について知っているか、7)AとBとのパートナーシップで培われたものを、AはCとの協働で、BはDとの協働で活かしていく準備があるかと7つを挙げている。つまり、教員と学生が自らの利益を越えて、常に第三者のステークホルダーの立場を視野に入れた透明性のある「対話」の場を作ることが必要であろう。例えば立命館大学は「全学協議会」という教職員のみならず、学生や生活協同組合が大学経営の議論に参加する場を設定し、「総長候補者選考委員」には教職員や理事他に、学生、卒業生、父母もメンバーに入っている。大学がステークホルダーとのパートナーシップによって「大学の存在意義」に向き合うことが、「発達障害学生支援」というミクロな視点からの脱却につながり、「非定型発達」を包括する「高等教育観」の再検討につながっていく。 「発達障害学生」を「障害学生」として選別するのではなく、「発達障害」と社会的に名付けられた「異文化」にも似た存在であるとの認識を広げ、その認識に基づいた大学教育システムの再構築を図っていく必要がある。アメリカ人同士の価値観が同一でないように、「非定型発達者」もまた、多様な価値基準に基づいた、行動様式を持っている。「非定型発達者」と呼称される人々と、「定型発達者」の価値観、行動様式等の一般的傾向としての「差異」に着目し、共生する術について、探求していくという営みである。今までの大学教育は「定型発達者」の「価値観」や「行動様式」に基づいて設備や制度の授業などのアコモデーションの設計がなされてきた。 単なる馴れ合いではない「パートナーシップ」に基づき、「大学の存在意義」「学生支援の射程」を踏まえた臨床に基づく「高等教育論」を思考し合うことによって、単なる「障害理解」から一歩進めた「異質とされる人々を大学社会が包摂する」という視点をもった大学の仕組みづくり、ひいては大学経営においてのプライオリティーやウエイトを高めていく可能性を広げるのではないだろうか。 1A大学院(2006)の授業において、筆者が発達障害学生の支援の必要性について発表した後のある教員Xの感想より。 2A大学院(2006)「社会保障論特殊研究」において、筆者が発達障害学生の支援の必要性について発表した後のある教員Yの感想より。 3佐藤浩章(2007)「ファカルティ・ディベロップメントの持つ可能性と現状の課題── 日本の大学を研究中心から学習中心に転換するために──」『BERD』第7号 ベネッセ教育研究開発センター 4 長野剛(2006)「2つのFD:メンバーシップFDとパートナーシップFD」『大学教育学第12号』九州大学 5長野剛(2006)「2つのFD:メンバーシップFDとパートナーシップFD」『大学教育学第12号』九州大学