■4−1 ある発達障害児に対する教員の対応 ──学校文化とコミュニケーション── 杉村直美(愛知県立高等学校・養護教諭) 【はじめに】  さいきん、どんな学校でも「特別支援教育」をすることになりました。教員たちも、徐々に「ADHD」「アスペルガー」という言葉になじんできています。その特徴も理解しつつあります。しかし、日常的にはどうでしょうか?  今日は、ある事例検討の場で、だされたADHDの生徒のエピソードに対する教員たちの意見をみていくことで、学校という場における「発達障害」の扱われ方を分析していきます。 【分析場面】  <データの採取場所> ある事例検討の場において、ひとりの教員が「対応にこまった例」として、事例を提供しました。それについて、参加している教員たちが、「そのときの気持ち」「自分ならとったであろう行動」「その理由」を中心に意見をかわしました。分析に使用した資料は、個々人が自分の意見をまとめるためにかきとめたメモ書きと、その場でわたしがメモした覚え書きです。 調査対象は、メモをてわたしてくれた20名(20代女性3名、30代女性4名、40代男性2名、40代女性4名、50代男性4名、50代女性3名)です。 <発表された事例の概要> ADHDの診断をうけているAさんは高校1年生です。彼は、明るく元気なために孤立することはありませんが、忘れ物や遅刻がおおく、また衝動的に行動するため、教員たちはAさんを気にかけています。とくに生徒指導部に属するB先生は、「あれじゃー、社会にでてやっていけないよ」「ちゃんとさせないと」と、日常的にAさんに厳しく接してきました。 ある日、Aくんもいるクラスに自習監督にいきました。他の生徒たちが「お〜、B先生」「今日、なにするの?」などにぎやかな声がとびかう中、Aくんの「うわ〜。めっちゃ不幸。B先生かよ」と言った声が聞こえたそうです。B先生は、その声に怒りがこみあげ、「A! 廊下にでなさい!」と指示し、廊下で「その態度はなに!言っていいことと悪いことがある」等とどなりちらしました。その間、Aくんはうつむきかげんで、視線をそらし、放心した様子だったそうです。B先生は、このとき大声で怒鳴ったことがよかったのかどうか、結論がでないというのが、提供された事例です。 <教員たちの「そのときの気持ち」>  まず、この事例をきいていた教員だちの「そのときの気持ち」ですが、40代・50代の教員は、おおきく二つにわかれました。  ひとつは「むかつく」「こういうイヤーなこという生徒、おるおる」など、怒りを感じるグループ。もう一方は、「本音だろうな」「どなられた生徒、いやだったろうな?」など生徒の気持ちに思いをはせるグループでした。20・30代は全員が女性ですが、このグループは「ショック」「かなしい」など悲しみを表現していました。 <とるであろう行動>  では、その結果の行動はどうでしょう。さきほどの「むかつく」グループは、「しかりとばす」「にらむ」「どなる」など、怒りを表現しつつ「しかる」という行動を選択しています。一方、生徒の気持ちをかんがえたグループは、「どうして?」と真意をたずねる「聞く」、「そうか」と「うけいれる」にわかれます。  「ショック」グループは、「自分の気持ちをわかってもらおう」として話すという行動をとります。 <その理由>  さて、その行動をとる理由ですが、40・50代の教員は、「Aさんの行動が、社会では、通用しないことを教える」「Aさんの社会性を育てたい」と考えるグループと、「Aさんの気持ちをたずねて、今後の方針や接し方を再考したい」というグループにわかれました。  また、20・30代の教員は、Aさんに厳しくしてきた理由を生徒に理解されることを望んでいました。 <分析軸>  さて、教員たちの気持ち、行動の理由に着目して分析軸をたててみます。まず、Aさんに「いやだ!」といわれたときの気持ちですが、「むかつく」「ショック」「かなしい」「やなやつ」など自分の感情に着目しているグループと、「本音だろう」「生徒、いやだったろうな」など他者着目群と名付けます。  つぎに、教員は行動しますがその行動には理由があり、めざすべき着地点があります。ひとつは「社会で通用しんことを教える」「社会性をみにつけさせたい」といった生徒の行動変化をもとめるグループ、もうひとつは「私の気持ちをわかってほしい」「生徒の気持ちをきいて、これから、どうするか考える」など、感情理解をとおして関係性の変化をもとめるグループです。前者を「行動変化」、後者を「関係変化」と名付けます。  この二つの軸を交差させることによって、4つの象限ができます。@「自己着目・行動変化」、A「他者着目・行動変化」、B「他者着目・関係変化」、C「自己着目・関係変化」です。さらに、ここに彼らのとる行動をあてはめてみます。@は、「しかる」、Aは「おしえる」、Bは「きく」、Cは「はなす」が該当します。 【論点】  さて、事例ではAさんの日常的なエピソードも語られ、B先生が「Aさんの社会性をみにつけさせたい」と考えていたことについては、回答者である教員たちは納得しているようでした。そのためのアプローチとして、社会性を「スキル」として教えようとした@とAのグループと、個人的な関係性を築き、他者への「配慮」として行動を変化させようとする、BとCです。前者は、ソーシャル・スキル・トレーニング的、後者はカウンセリング的と言うこともできます。どちらも学校や家庭など、こどもを教育しようとする場合、よくとられる方法です。  さて、Aさんの行動が、「社会化」する可能性があるのは、どの方法でしょう。わたしは、A、つづいてBだと考えます。なぜでしょうか。  結論を先取りすれば、この場合の目的は、Aくんを「社会化」させることにあります。@の「しかる」では、その行動を「だめだ」とは教えても、その代替の方法をAくんは自分で考えることになります。Aは、その点Aくんの気持ちをうけとめたうえで、クラス全員で「社会的なふるまい」を具体的に考えようとしています。Aくんは行動を変化させるきっかけをとらえることができるかもしれません。  BとCは、Aくんと意思疎通ができることを前提にしていること、またAくんが教員の立場を理解したら、あるいは教員が態度を変更すれば、Aくんにその気持ちが通じると考えている点で、問題です。おおくの生徒にとっては有効な方法かもしれませんが、たとえば自閉傾向などにあり、他者の気持ちを推測することを苦手としている生徒にとっては、この方法は混乱を与えることになるかもしれません。  もっとも効果的な方法は、いったんAくんの気持ちをうけとめ、彼の言い分をきいたうえで、教員側が自身の行動をあらためるとともに、そうした感情とは別に、「社会をいきるスキル」として、ふるまい方をともに考えることが重要ではないでしょうか。  では、なぜ、こうした態度をとる教員が、「教育相談」を担当する教員にすらすくないのか。彼らの声から、考えていきたいとおもいます。 <Aさんの行動背景>  たとえば、Aさんの行動の意味を、教員たちはどうかんがえているのでしょう。Aさんがなぜ、教室で大声でB先生を拒否する発言をしたのか、教員たちの発言からその解釈をひろってみます。  もっとも大きな声で発言したのは、@のタイプの教員たちで、怒りとともに「常識がないんだ」「教員に反抗する態度を、クラスのやつらにみせびらかせて、一目おかれたいんだろう」「人を不愉快にさせたい生徒なのよ」など、生徒の「常識のなさ」や「悪意」に起因すると考えるものです。  これをフォローするかたちでの発言がCのタイプにみられました。「でも、その常識のなさが、教員を傷つけてるなんて、想像力はないんですよね」「教員だって、傷つきますよね」「そこをちゃんと理解させないと」「みんな生徒のためを思っているのですから」など、生徒の「幼稚さ」や「思いやり心が育ってないこと」に原因をもとめます。  「そうでしょうか」と反論したのが、AやBの教員で、「叱られ続けてつらかったかもしれない」「なにを叱られていたのか、理解していない可能性もある」などの意見でしたが、これは@の教員によって、「高1にもなって、なにを叱られていたか、わからんことはないでしょう」と否定されていました。 <ADHDという情報>  さて、このとき、教員たちはADHDという情報にまったくふれませんでした。そこで、同席していた私が「AさんがADHDと診断されている事実は、その行動に関係しないでしょうか?」とたずねました。そこでは口々に私見がのべられました。  真っ先に口をひらいたがのが、@に属するタイプの人たちで、「ADHDは関係ない。だめなものはだめとしかる必要がある」とする「情報として無視」しています。  Cのタイプは、「ADHDって、コミュニケーションには問題ないんですよね」とステレオタイプなADHD像に基づいて判断しています。  AやBのタイプが、「ADHDだと、叱られ続けてきた可能性が高いからな…いつも叱られて追い詰められていたのだろう」「衝動的に、言ってしまったのかもしれない」「対人関係に問題だってもっていたかもしれない」とADHD的特徴とともにその周辺事情も考慮して答える様子や、ADHDの情報にはあえてふれず、その子の状態を考えようとする態度がみられましたが、「それは、ないでしょう。こういう生徒は、いつもいますよ。ADHDだと特別扱いするべきではない」と怒りをこめた@タイプの教員の発言に、おされていました。  なせ、@のタイプの教員の発言権は大きいのでしょうか。そのまえに、まず「発達障害」が、学校でどのようにうけとめられているのかをみていきます。 <過渡期にある「発達障害」概念>  教員にとって、「発達障害」という言葉は、教員にとってかなり身近になりました。「よくある特徴をことさら「障害化」する」と反対する教員もいますし、「障害概念」を普及させようと懸命な人もいます。しかし、おおくの教員は、ステレオタイプな発達障害観を獲得した段階です。たとえば、ADHDなら、多動性・衝動性・不注意、アスペルガーは社会性・コミュニケ-ション能力にかける、LDは読み書きが苦手といった知識であり、目の前の生徒がその状態にあてはまれば考慮するが、異なる特徴があれば、「障害ではない」と考えるといった具合です。さらに、発達障害は、脳の機能障害と言われるものの、目にみえません。  よって、おおくの教員たちはつねに「ほんとに、発達障害か?」「ただの怠けじゃないのか?」「常識を知らないだけじゃないのか?」と疑いの目をむけています。それでも、診断と特徴が、ステレオタイプな発達障害にはまっていれば、教員は「あいつは、ADHDだから」などと、若干の「例外化」をみとめます。しかし、その「例外化」も、おおくの高校においては、「ADHDだから、しかたがない」とペナルティが軽減される程度です。「だから、宿題をわすれないようにするためには、どうすればいいのか」「遅刻しないためには、どんなことが必要か」といったことを、生徒とともに考えようとする教員、たとえばAやBのような教員は、ごくごくわずかです。 <学校における発達障害概念>  一般に学校とは、生徒に勉強をおしえるところですが、「社会性をみにつけさせる」場でもあります。ここでは、教師は「あるべき社会化の姿」を知り、「社会化されていない生徒」を教え導くものと解釈されます。  この社会化とは、教員にとって「遅刻欠席がない」「明るく挨拶ができる」「人に親切にできる」「勤勉である」などの特徴と理解されています。ゆえにこれらに反する行動は、「常識に欠ける」「怠けだ」と厳しく「叱咤」し「指導」される対象となります。「叱咤」と「指導」によって改善されなければ、その生徒は「排除」されても仕方がないとみなされます。 「怠け」「非常識」といった言葉は、学校内において「道理ある」排除装置となっています。この「学校規範」にもっとも適合的なのが、@のタイプの教員といえます。  「発達障害」という概念は、ここにストップをかけました。「怠けているわけではなくて、できないんだ」「常識がないのではなく、なにが常識かがわからないのだ」といった具合にです。 <「例外」化の効果>  学校の成員は、教員間・生徒間でそれぞれ序列づけしています。これは、公言されませんが、成員間にとっては自明の事実として存在します。たとえば、生徒であれば、だいたい成績でランクがつけられ、それに、運動神経・容姿・コミュニケーション能力といった特徴が加味され、最終的な序列ができます。この中で、「教師にいつも叱られている子」は、圧倒的に「下位」にランクされます。「最下位」にちかい生徒は、教室内での居場所を失いがちですし、自尊心も有能観も低下します。いじめのターゲットや不登校にもなりやすい位置におかれます。  こうした学校特有の「文化」をかんがえるとき、序列の最下位に位置することと、序列外、つまり「例外」とみなされることは、おなじ「低位」におかれるとしても、その意味は異なります。「序列内低位」は、仲間としてばかにされますし、教員からも叱責対象とされますが、「序列外低位」は、異質なものとして、距離をおかれます。どちらがいいかは、簡単には判断できませんが、すくなくとも他者に「頻繁に叱られる」といった状況を回避できることは、当事者にすこし余裕をもたらせるのではないでしょうか。  たとえば、@の「しかる」教員や、Cの「話す」ことで理解を得ようとする教員は、ある意味、同じ文化を共有する「仲間」として、Aくんに接します。Aの「おしえる」教員やBの「聞く」教員は、自分とは距離のある文化にいきる「お客さん」として接しているということが言えるかもしれません。 <「障害学」の視点にたった学校運営?「できない」「しらない」という前提>  「お客さん」より「仲間」のほうが、近い関係のように感じるかもしれません。しかし、「障害学」は、じつは「お客さん」認識を高めようという活動のように思います。  これまで、「障害者」はその個々人がもつ機能障害のせいで、「健常者」の仲間からはずされていました。そして機能障害を、治療やリハビリや、個人の努力によってカバーし、「仲間」になることを求められてきました。だからこそ、「仲間の最下位」として劣位におかれ、「上位者」に従順であることを求められてきたのではないでしょうか。  しかし、「障害学」は、機能障害をもつ人が社会で不自由なおもいをするのは、社会が「障害」となっているからだと声をあげました。そして、「機能障害」にみあった配慮を社会に求めます。「機能障害」をもつ人を「健常者規範」にあてはめるな、異なる文化背景をもつ他者として扱え、つまり「お客さん」をもてなす意識で、社会のあり方を再考せよという意味ではないでしょうか。  私は、ぜひ学校文化にも、この「お客さん」?むろんこの場合のお客さんは、消費者の意味ではなく、よそからやってきた人という意味ですが?をもてなすという意識をもちこむ方法をさぐっていきたいと考えています。  虐待も体罰も「いじめ」も、「身内」「仲間」ゆえにおこる現象です。「ふつう」とはすこし違った特徴をもつ人々、それは「障害者」であったり、「ニューカマー」であったり、「学校不適応者」であったりするでしょうが、その彼らを「お客さん」としてもてなすという考えは、いまの学校にとって重要だと思います。そのときに、はじめて自分の言動を「正しい」と信じ、「善意」で叱咤と厳しい「指導」をくりかえす教員たちは、自らの言動が、一部の「文化背景」によって支えられている相対的なものであり、絶対的価値ではないことに気づくとおもいます。もちろん、障害学は「障害者」をいつまでも「お客さん」の位置におこうとしているとは思いません。しかし、現状で、「発達障害」をもつ生徒をはじめ、異質な他者への配慮の必要性を訴えるためには、まずは、「お客さん」概念が有効ではないでしょうか。「社会の配慮」が足りないことを、学術的に訴えることは大切ですが、学校現場で、「しかる」「指導する」を当然と考えている教員たちによって、いま配慮されていない生徒のためには、「お客さん」として「もてなしましょう」とよびかけたほうが、賛同はえられやすいのではないかと思っています。