■2−2 自閉症の定義における「社会」概念の変遷について 片桐正善(立教大学) 近年、自閉症が「社会性の障害」と一義的に語られることが定型化しつつある。しかしながら、自閉症がこのように語られるようになったのはそう古いことではない。精確にいうならば、今日では、自閉症は古くから社会性の障害として語られてきたかのように語られている。この報告では、その是非について論じるのではなく、自閉症についてなぜそのような語りが生じたのか、自閉症の定義にまつわる歴史を検討するとともに、自閉症を「社会」概念で定義することの射程とその可能性について検討する。 自閉症は、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが1943年に発表した論文「情動的交流の自閉的障害」(Kanner,L.[1973=1978])をその端緒とし、育児環境がその原因とされたいわゆる心因論説を経て、1960年代後半ごろから、自閉症は脳の器質性の障害であることが科学の名の下に語られた。これは、後年にはコペルニクス的転回(中根[1978])と称され、今日の自閉症論もなおその影響を強く受けている。このような自閉症におけるコペルニクス的転回が1970年前後に生じた背景として、マイケル・ラターと共にロンドン学派と呼ばれ、このコペルニクス的転回の成立に寄与したローナ・ウイングは、1960年代に二つの理由で大きな流れが変わったためとしている(Wing,L.[1997=2004:15-16])。一つは、「自閉症の原因が自分たちのせいではないと自力で考えた親たちがまとまって、協会をつくったこと」もうひとつが、「より厳密な科学的研究がはじまったこと」である。 しかし、1970年代以降、自閉症に関するデータが増え、さらに「より厳密な科学的研究」が行なわれれば行なわれるほど、この仮説を否定する多様で雑多な事例、つまり明らかに仮説をはみ出すのだが、しかし自閉症としか名指すことのできない事例が例外として無視できないほど多数出てくる。厳密な科学によって生み出された仮説そのものが、データという厳密な科学の名の下に否定された。これが1980年代以降の自閉症論の大きな課題であった。 この課題への回答は様々にあったように思われるが、ここで問うのはその回答の是非ではない。重要なのは、この課題へのひとつの回答の仕方のひとつが自閉症の「社会」化であったこと、そしてこの回答は語られることはほとんどないが、その後の自閉症論に強い影響を与えたことである。では、自閉症の「社会」化とはどのように生じたのか。 1980年代後半、一部の自閉症論者の間で、カナーの自閉症論を再評価しようとする機運が盛り上がった(Dawson編[1989=1994])。そのような動きは「カナーへの回帰」(野村[1992:6-7]、別府[2001:6-7])と称される。それは言語・認知障害の否定を受け、自閉症の本質を「社会性の障害」として自閉症の延命を図る試みであり、その淵源をカナーに求める動きである。 自閉症を「社会性の障害」と定義するにしてもそう呼ぶなんらかの根拠がいる。そこで、言われだしたのが「そもそもカナーがそう言っていたではないか」という根拠である。そして、1980年代後半から90年代ごろには、カナー以来、自閉症は社会性の障害であったのは、誰も疑わない自明の真理として確立し、以後あらゆる自閉症論で語られるようになった。  ただし、ここで問うているのは「自閉症が社会性の障害か否か」ではない。われわれがここで問うているのは、それまで誰も自閉症を社会性の障害などと言っていないのに、なぜあたかも「原始、自閉症は社会性の障害であった」かのような言説が1980年代後半以降これほどまでに強力なものになってしまったのかということである。 そもそもカナーは「社会」を語っていたのだろうか。実際にカナーの論文を調べると、彼は自閉症に関連する論文の中でsocialという単語をほとんど用いていない。たとえば、先に述べた自閉症第一論文「情緒的接触の自閉的障害」においては、socialの派生語を含めても、たった4箇所しか用いておらず、それもそのうち3箇所は事例の説明文において用いたにすぎない。カナーの生涯にわたる自閉症に関する論文を集めた論文集(KannerL.[1973])で調べてみても、第一論文の後も彼はほとんどsocialならびにその派生語を用いていない。彼が社会を語りだすのは、彼の晩年ともいえる1970年代に入って、1943年に最初に報告された11名の自閉症児に関する追跡調査研究を行なった後に書いた論文「自閉症児はどこまで社会適応可能か」からである。 カナーの自閉症論の射程はなんだったのか。カナーの第一論文を読み込むと、その結語に明確に示されている。それは、「社会」という後天的な条件を捨象して、人間の純粋培養(pure-culture)へと近づくこと、これこそがその目的であった。そのようなカナーのまなざしは、第一論文のタイトルからもわかるように、「情緒」をキーワードに、自閉症概念を人間理解へと向かっていたのである。しかし、カナーへの回帰によって、カナーの自閉症論のキーワードは「情緒」から「社会」と呼び変えられた。そして、今では、「カナーへの回帰」を主張する論者のみならず、多くの自閉症論者が、自閉症を「社会性の障害」と定義している。 「カナーへの回帰」のスローガンの下に、1980年代後半から90年代にかけて、自閉症を「社会性の障害」と定義したあの動きとはいったいなんだったのだろうか。「カナーへの回帰」「社会性の障害」の射程はそもそもどこにあったのか。1980年代においてなぜ自閉症を「社会性の障害」と呼ぶようになったのだろうか。なぜ「社会」なのか。そしてどこから「社会」という概念が自閉症論において発生したのだろうか。おそらく、ひとつの要因だけで説明ができるものではなく、この転換はさまざまな位相が絡み合って方向づけられたものと考えられる。ここでは、考えられる主要な二つの由縁をあげつつ、その意義や意味について検討する。 一つ目は、ローナ・ウイングの影響である。ウイングは表立って「カナーへの回帰」というスローガンを表明しなかったが、1970年代ごろから「社会性」という概念を巧みに使いながら自閉症スペクトラムという分類システムの構築を目論んでいた。社会性という概念が80年代ごろから語られるようになった背景には彼女の強い影響が考えられる。 ウイングは、1960年代から自閉症児の親や教育関係者向けにわかりやすい自閉症の啓蒙書を書いてきた。この時期はまさにロンドン学派が脳機能障害説を打ち立てるころであり、そのロンドン学派の中心的な存在でもあったウイングによるこれらの啓蒙書での自閉症の説明は、自閉症が脳の器質障害であること、親の不適切な養育によるのではないことを最新の学説として明示するものだった。まだ、自閉症そのものを知らない、もしくは誤解して理解している医師すら多かった時代において、ウイングの書物がいかに自閉症児の親を勇気づけたかは想像に難くない。1960年代から70年代前半ごろまでのウイングが啓蒙書を次々と書いたその目的は、その当時自閉症と診断され、苦しんでいる自閉症児者やその家族への具体的な支援であった。  しかし、1970年代後半から80年代にかけて、ウイングの射程はさらに拡大進展し、いわゆる自閉症診断における境界事例をも含めた臨床的に有効な分類システムである自閉症スペクトラムを構想し始める。ここにおいて、1979年のグールドとの共著論文である「子どもの社会的相互行為の重度の障害とそれに関係する異常性について:疫学と分類」"Severe impairments of social interaction and abnormalities in children ; Epidemiology and classification."は決定的に重要な意味を持つ。 タイトルからわかるように、この論文は自閉症の疫学調査発表でも自閉症の分類論でもない。この論文において対象として設定した人の特徴は、「重度の社会的相互行為の障害と、話しことばや身ぶりを含む言語発達の異常性と、主として反復・常同的な活動からなる諸行動を生まれつきあるいは生後数年以内に発症する子ども」(Wing & Gould[1979:11=1998:60])の3つである。そして、タイトルと対象を比較してもわかるとおり、この三つの中でもっとも重要視されている特徴が、「重度の社会的相互行為の障害」、まさに社会学においてはおそらく社会学者が誰もが認める、もっとも重要な概念のひとつであるsocial interactionなのである。そして、このsocial interactionの障害が、「社会性の障害」と語られる所以のひとつである。 では、ウイングにおいてsocial interactionという概念の射程はどこにあるのか。それを考えるには、ウイングが構築した自閉症の三つの特徴のうちの、ほかの二つの特徴を検討してみればわかりやすい。「話し言葉や身振りを含む言語発達の異常性」は、言語・認知障害説の言語障害であり、「主として反復・常道的な活動からなる諸行動」は、言語・認知障害説の認知障害を引き継いだものである。 ウイングのこの論文が発表された1979年は、おりしも同じロンドン学派と称されるラターの言語・認識障害説がまさに否定されようとしていたころであり、言語・認知障害説に寄って立ち、自らの啓蒙書を執筆していたウイングにとっても危機的な事態であった。とはいえ、少なくとも言語・認知障害説を捨て去ることはその背後にそびえる脳器質障害説そのものの否定にもつながりかねない。ウイングは、言語・認知障害説の成果を生かしつつ、その脳器質障害説の延命をはかったのである。その際に、ウイングが考え出した新しい説明概念がsocial interactionなのである。 では、このsocial interactionとは、ウイングにおいては具体的にはなにをさしているのか。 ウイングは1979年の論文以降、この三つ組の説明の中で、後二者に関しては微妙に表現を変えることがあっても、第一の特徴であるsocial interactionだけは今日まで一貫して変えていない。しかし、その内容の説明に関しては、さまざまに変えている。もちろん、その内容の大まかな枠は、カナーが現象記述した自閉症の特徴のうち、コミュニケーション障害と反復・常道行動にかかわるもの以外すべてであり、結局のところ、言語・認知症外仮説で説明がつかない自閉症の重要とされる特徴はすべてsocial interactionに回収されたのである。  では、脳機能障害説は否定しないことを大前提としつつ、言語・認知障害では説明できないsocial interactionはどのように説明されるのか。ウイング自身はそのことをラターが1970年代において言語・認知障害をクリアカットに説明したような明快さでは示してはいない。 では、なぜウイングはそれらの現象を、social interactionと名づけたのか。彼女はそれを明確に述べてはいない。1960年代前半に書かれた啓蒙書において、すでに自閉症における社会適応の問題について彼女は語っている。彼女にとって、自閉症研究の目的は「最大限役に立つ分類システムを構築」(Wing & Gould [1979=1998:72])することであった。彼女が書いた啓蒙書の類を読めば、実際の支援の指南がかかれる部分になると「社会」という言葉が頻出していることがわかる。彼女にとって「社会」が定義に入ることはごく自然なことであったのだろう。 ウイングにとって「役に立つ分類システム」とは、親や教師にとって役に立つ分類システムであり、脳器質障害という大前提は引き継ぎつつ、例外事例をも取り込めるような自閉症の分類システムの確立をもくろむ。そして、ウイングにとってその分類システムこそが、この疫学調査に基づいて、後年に考案されることになる「自閉症スペクトラム」(Wing[1996=1998])である。 もうひとつ、心理学における発達心理学・教育心理学や、社会福祉学に置けるケースワーク論をベースとした、発達論的なアプローチの影響をあげることができる。小澤勲[1986→2008]は、心因論から脳器質「障害」説へ転換が、自閉症者を障害者として受け入れる準備が社会制度において1970年代に整ったことと軌を一にしていることに注目し、医学が社会から切り離された純粋科学などではなく、極めて社会的であることを批判したが、その批判の一方で、自閉症は児童精神医学だけの対象ではなくなり、教育や福祉の対象へと広がった。特に、脱フロイトを課題としてきた臨床心理学周辺においては、早い段階から「社会」概念を使って、心理現象を「心理社会的」現象として考察している。ここでは、精神科医であり発達心理学者・臨床心理士でもある滝川一廣の一連の論考を参照する。 滝川[2004]は「情緒」と「社会」の両方を射程にとらえつつ、精神発達を踏まえた新しい自閉症のとらえ方を提言する。精神発達を心理社会的な現象ととらえ、認知性(=知能)と関係性(=社会)のベクトルの相互作用として精神発達をとらえ、その相互作用のバランスの不整合として自閉症を含めた発達障害全般を位置づけるものである。滝川はウイングのいう自閉症スペクトラムの狭さを批判したうえで、精神発達の全人的なスペクトラムを前提として発達障害の療育を説く。このスペクトラムは定型発達と自閉症を連続的にとらえる射程をもち他者理解の可能性を示すものといえる。このような見方は、滝川独自のものではなく、伊藤のいう「発達スペクトラム」(伊藤良子[2009])しかり、「社会」概念を組み込んだ心理学やケースワーク論を前提とした自閉症論においては一般的である。 この両者に共通する「スペクトラム」こそが、自閉症に「社会」概念を導入することの射程といえよう。しかし、この両者ではその射程が目指す先は、若干異なる。 ウイングにおける自閉症スペクトラムは境界が明確にあり、スペクトラムは自閉症を超えていかない。彼女のいう「社会」はあくまで自閉症の外部にある「ものさし」であり、それゆえ、彼女の語る自閉症にまつわる療育は、行動療法に親和的であり、療育者は自閉症に関する特性を「知らなければならない」。 一方、発達論的なアプローチではどうか。滝川[2008]は、具体的な療育方法へのアドバイスとしては、遊戯療法再評価の文脈において、定型発達児への療育と自閉症児への療育をわけた上で、自閉症児に根気強く工夫して積極的にかかわる養育的態度を強く求める。つまり、非自閉症児者に対しては構える必要はないどころか、逆に構えずに子どもに引き込まれるように自然にいっしょに遊ぶことが結果として最良の療育になっているのに対して、自閉症児者に対しては、ふつうの親子が意識せずおのずとやっているような日常の遊びを敢えて意識的かつ積極的で能動的な態度でおこなうこと、つまり療育者に「配慮や工夫、根気とねばり」が求められるとする。つまり、自閉症にかかわる療育者は「人間の発達」について「知らなければならない」。 発達論的なアプローチによる、自閉症という枠を超えるスペクトラム概念を知ったとき、知的障害児者の支援者でもある私は、そこに開放感を覚えると共に、壮大な可能性を感じた。他者と地続きで連続していて、他者理解に開かれつつ、それでいて、それぞれのゆるやかなカテゴリーをも認めていく、そんな新たな社会の可能性をその先に見た。 しかし、その一方で、それにもかかわらず、そのスペクトラム概念を踏まえ、実際の自閉症支援にあたっての療育者の態度を説く滝川の語り口から、息苦しさ、堅苦しさをも感じる自分がいる。対定型発達児では何も考える必要はない、対自閉症児ではひたすら配慮し工夫し、根気とねばりが必要だという。なぜあれだけ理念的に徹底的に考察した結果導かれた深くかつ広いスペクトラム概念から、実際の具体的な支援の段になるとこれほどまでに窮屈な実践態度になるのか。 発達論のいうスペクトラムは障害者と健常者は連続的地平で語られるものの、その療育者へ求められる態度は一律的で狭いように思えてしまうのはなぜか。それは、ウイングの自閉症スペクトラムが自閉症の特性を「知る」ことを求めることと同様、発達論のスペクトラムも発達について「知る」ことを求めることに由来しているのではないだろうか。そもそも、自閉症児者の療育や支援に関わる者は、本当に自閉症の特性や人間の発達について知らなければならないのか。そもそも「知る」とは何をどうすれば知ったことになるのか。 このような見方は、現在の社会福祉理論、つまり障害者自身のニーズを前提としながらも、ニーズがわかりにくい知的障害者や自閉症者に関しては、「社会」を正しい前提として社会的なコンセンサスによる支援のあり方を正しく模索することを支援者に求めるあり方とパラレルな現象であるように思われる。 自閉症を「社会」化することは「自閉症と定型発達の連続性というパースペクティブの力強さ」を見せてくれた。ここでわれわれが問うべきは、「この力強さを保ちながら、自閉症に関する療育のあり方を検討する立場がありえないのか」ということである。この可能性について検討することが今後の課題であり、そのヒントは、自閉症にまつわる知識などない時代、かつ自閉症に特化した制度もない時代に、自閉症児者とともに生きてきた先人たちの営みをみていくことにあるのかもしれない。 【引用・参考文献】 伊藤良子、2009、「人間はみな発達障害」伊藤良子・角野善宏・大山泰宏編『「発達障害」と心理臨床』創元社、15-28。 Wing,L.、1997、History of ideas on autism : Legends, myths and reality, Autism.1(1)=2004(久保紘章訳)「自閉症に関する考え方の歴史」『英国自閉症研究の源流』相川書房、10-23。 ――――、1998、『自閉症スペクトラム』東京書籍。 Wing,L..& Gould,J、1979、"Severe impairments of social interaction and abnormalities in children ; Epidemiolojgy and classification." J.Autism & Develop. Disord.,9 ; 11-29 =1998(新沢伸子訳)「子どもの対人交流の重度の障害とそれに関係する異常性について:疫学と分類」『自閉症と発達障害研究の進歩』2、日本文化科学社、59-72。 小澤勲、1984→2008、『自閉症とは何か』洋泉社。 Kanner,L.、1973、"Child hood Psychosis"John Wiley&Sons.=1978(十亀史郎訳)『幼児自閉症の研究』黎明書房。 滝川一廣、2004、『「こころ」の本質とは何か』筑摩書房。 滝川一廣、2008、「子どもとの心理療法(個人療法)――遊戯療法を中心として」牛島定信・村瀬嘉代子・中根晃編『詳解 子どもと思春期の精神医学』金剛出版、257-281。 中根晃、1978、『自閉症研究』金剛出版。 野村東助、1992、「自閉症における社会的障害」『自閉症児の言語指導』学苑社、1-19。 別府哲、2001、『自閉症幼児の他者理解』ナカニシヤ出版。