■2−1 共生・社会的評価・身体技法 榊原賢二郎(東京大学、日本学術振興会特別研究員)  ここでは共生の概念について検討したい。共生は1970年代以降の障害者解放運動において重要な意味を持ったが、その後様々な人に多用されるとともに、意味内容が薄まってきた感もある。この報告では、共生概念が持ちうる意義の一部を、ここでいう社会的評価というものと関係付けながら、再検討することを目標とする。  報告の流れとしては、まずセンの潜在能力アプローチおよびウルフェンスバーガーのソーシャル・ロール・バロリゼーションを検討する中から、社会的評価と呼びうる要素を取り出す。反優生思想・反能力主義という立場は、存在および能力に対する社会的評価への問いかけによる差別の乗り越えの模索として捉えられる。それらは、否定されるべき差異と肯定されるべき差異の線引きを引き直すことに基づく反差別の方向性とは異なる可能性を示していることを述べる。しかし、こうした社会的評価および差異をめぐる問題系には回収されない差別の根本的な一側面として排除を指摘する議論を取り上げ、共生を反排除として捉える可能性について述べる。最後に、共生を反排除よりも広く捉え直す必要があることを述べる。  初めに潜在能力アプローチを取り上げる。潜在能力アプローチは福祉の水準を測定する一方法であり、従来の所得水準や効用の水準による福祉の測定に代わるべき基準としてセン(Sen, 1985=1988)が提唱したものである。測定されるのは、個々人の潜在能力であり、それは個人が達成しうる機能の集合とされる。機能とは、個々人が行いうることおよびなりうること、つまり能力と存在の幅を指す概念である。そして、個人が置かれた条件の中で達成可能な機能の集合が潜在能力と呼ばれる。  この潜在能力という対象とともに潜在能力アプローチを特徴付けるのが、「評価」という要素である。評価は、人が有する潜在能力の善さの序列化に相当するが、ここで重要なのはセンがいう評価が持つ客観性である。センは欲望や幸福に基づいて福祉を主観的に測定することを批判する。それというのも、客観的に見て苦境にある個人が、その状況に満足している場合に高水準の福祉を達成していると判断され、極端に抑圧された人々の窮状すら捉えることができないからである。こうした主観的な測定方法にかえて、センは人々が潜在能力を知的・内省的に比較し序列付ける活動として評価を定義し、その必要性を唱える。  この評価は、少なくとも部分的には個人の間で共有され、普遍性を持ちうるとセンは主張する。様々な人の潜在能力に対する評価が全て一致しなくても、部分的に一致を見る部分は存在するとセンは述べている。この一致を見た共通部分によって、人の状態の明らかな優劣、極端な貧困や抑圧などを判断することは可能である、というのがセンの主張である。  そして、こうして人々に共有された尺度として立ち上がった評価によって潜在能力が劣っているとみなされた場合、財の配分や、財の特性を利用するための条件の変更が要請される。それによって個人のよき生が目指される。  同様に評価を中心に据えることによって差別に対抗しようとする議論として、ソーシャル・ロール・バロリゼーション(日本語では社会的役割への価値付与)がある。ソーシャル・ロール・バロリゼーションは、ノーマライゼーションを定式化した代表的人物の一人であるウルフェンスバーガー(Wolfensberger, 1994=2000)が、ノーマライゼーションに取って代わるべき理念として提唱したものである。それは、障害者を含む否定的価値付与にさらされた人々が、価値のある社会的役割を持ち、それを維持することを指し、このことが福祉サービスなどに反映されなければならないと主張された。  ソーシャル・ロール・バロリゼーションの議論は、人間の知覚が本来評価的であり、すべての物事、とりわけ人々は肯定的ないしは否定的に評価されるというところから出発する。とりわけ否定的評価が考察の対象となるが、否定的評価については二つの水準を区別できるとウルフェンスバーガーは述べる。一つ目は彼が「あらゆる個人のレベル」(ibid., 15)と呼ぶものであり、各人がそれぞれの好みに応じてばらばらに否定的評価を下す状態を指す。この水準では、教皇や首相や教育程度の高い人といった社会の中で望まれる地位にある人も否定的評価を下されうる。  否定的評価の二つ目の水準は「全体の社会レベル」と呼ばれるものである。この水準においては、全体社会の大多数の人が一致して、ある集団の成員に対して否定的評価を下す。ウルフェンスバーガーが取り組むのは、この水準における否定的評価である。これに対して彼が示した解決策は、人への評価と役割への評価を区別し、役割への評価を高めることによって、全体社会の水準における否定的評価を乗り越えるというものであった。  センとウルフェンスバーガーが共有しているのは、個人の存在と能力あるいは役割に対する評価、特に大多数の人々が共有する普遍的尺度として立ち現れる評価であった。この種の評価を、両者の言葉をつないで、社会的評価と呼ぶことができるだろう。二人は差別や抑圧の根本に社会的評価の問題を見た。そして、社会的な否定的評価を受けた人々が価値尺度の上で良い位置を占めるように、社会的評価を書き換えることを志向した。  二人は社会的評価に着目した上で、社会的評価自体は維持し、それを良いものとすることを目指した。しかしこの方向性は、障害の文脈では両義的な意味を持ちうる。潜在能力アプローチを取り挙げれば、それは介助や所得といった生活の基本的な財・条件の提供の基礎となったり、欠格条項や雇用差別の撤廃を要請しうるものである。しかし、潜在能力アプローチには、障害を持つ個々人を劣った存在として、客観的な、人々に共有された形で位置付けてしまう側面があるように思われる。潜在能力アプローチは、個人の存在と能力を対象としてそれを人々の間に共有される形で評価することを目指す。したがって、福祉が劣っているという判断は個人を取り巻く物理的・制度的な状況の優劣に基づくものではなく、第一にその個人が劣っているという客観的な判断を根拠とすることになる。一方、インペアメントは、しばしば行いうること、なりうることの幅を制限する。そのことが潜在能力集合を狭めるとすれば、潜在能力アプローチにおいてはインペアメントを持つことおよびインペアメントを持つ個人の生には負の価値しか与えられないこととなる。そうしたインペアメントを持つ個人への否定的な評価が、人々に共有された普遍的な尺度として立ち上がるのである。  このように考えた時、「福祉の計測は、結局のところひとの存在と生活の質の評価である他はない」というセンの言明は、障害の文脈において優生思想・能力主義と呼ばれてきたものに重なりうるといえるかもしれない。優生思想および能力主義と呼ばれてきたものは、人の能力と存在の幅に対する社会的評価として捉えうるものである。青い芝の会の運動によって始められた反優生思想・反能力主義の運動は、社会的評価への着目という点ではセンやウルフェンスバーガーらと共通しつつ、主に社会的評価を無効化する試みであったという点で、方向性を異にしている。反能力主義・反優生思想の運動は、能力、とりわけ労働生産能力による評価や、障害の有無および軽重による評価が、重度障害者を生産性が低く不幸な存在として劣位に置くことを批判し、こうした測定自体を否定したということができるだろう(横塚, 1975)。  本報告の主題である共生は、まずはこうした評価の無効化との関わりで捉えることができるだろう。1970年代以降の全障連などの日本の障害者解放運動は、共生を一つの理念として掲げた。そこで問題とされたのは、教育現場や労働現場における選別だったが、その基礎には、社会的評価が働いている。これに対して、障害者解放運動は、そもそも社会的評価を行うこと自体を批判していった。例えば養護学校義務化阻止闘争においては、発達保障論が問題となった。発達保障論は、人の発達をその外界との関係および身体諸器官の協働関係に即して、発展段階として捉えた(田中, 1980)。この発達保障論は、発達が遅れた子供にも教育の可能性を見出すものだったが、発達が遅れたとされる障害児にきめ細かな指導を行うためとして、分離教育を導くこととなった。これに対して全障連は、発達ではなく、どの子も普通学級で健常児と共に学べることこそが重要であるとして、共生教育を打ち出したのである(全障連, 1977)(楠, 1998)。  また、豊中市職員としての採用を求めた三氏就労闘争も、共に生き共に働く職場を目指して争われた(JIL, 2001)。そこで掲げられたのは、無試験優先採用という標語であった。試験を行わず、障害者を優先的に採用せよ、というこの主張は、選別の基礎となる「既成の公務遂行能力」が障害者不在の労働現場において差別的に形成されており、障害者をふるい落とすことの批判として提起された。彼らは、問題は労働現場における障害者の不在であり、能力があるかどうかを測定することは控えられなければならないと主張した。こうして、共生教育や、共に生き共に働くといった理念における共生は、発達保障論や能力に基づく採用試験のような、個人の存在や能力に対する社会的評価を無効化するところに成立するとひとまず位置付けられる。  以上では、社会的評価を中心に据えた反差別の試みの存在を指摘した。その中には、センやウルフェンスバーガーのように、社会的評価自体の存在は前提として、それを良いものに書き替えていくことが反差別につながると考える人々がいる一方、青い芝や全障連・三氏就労闘争などが目指したことは、優生思想や能力主義という形をとる社会的評価自体の乗り越えであったといえる。江原氏(1985)は、従来の差別の定義を、次の要素に分けている。それは差異の強調、その差異への評価、不平等な処遇の正当化である。そして、これらに応じて、反差別の論理には、差異の存在を否定する方向性と、差異の存在は認めるが差異への評価を変容させる方向性が生じ、これらの間で分裂も起きていると江原氏は論じる。  こう考えると、先に述べた社会的評価の乗り越えの模索は、障害者と健常者の間には差異はない、または差異は重要なものではないとする方向性には回収されない可能性を開いているといえる。例えば、障害者も生産的な社会の一員として認められるべきだ、という機会均等の主張と結びついたADA(障害を持つアメリカ人法)は、中心的な職務に限れば労働生産能力は健常者と変わらないといえる障害者について雇用差別を禁じた。しかし、これを反差別の主要な原理とするとき、労働生産能力は変わらないと容易には言えない障害者は取り残されることになる。これに対して、社会的評価を変容させる方向性をとる反能力主義の立場からは、労働生産能力があるかないかという測定に基づいて反差別の論理を立てることが批判されることとなる(花田,1991)。  江原氏によれば、こうした差異の否定と評価の変容の間の分裂を回避する方向性として、差異の内実を吟味し、否定すべき差異と肯定すべき差異を区別する試みが浸透しているという。それは、社会的・文化的に構成された差異および支配的集団の偏見としての差異はなくしていかなければならないが、身体的・自然的な差異は否定されるべきではなく、むしろ多様性を生み出すものとして積極的に肯定されるべきであるという議論である。障害の社会モデルの展開にも、こうした方向性を読み取ることができるだろう。当初の社会モデルは、身体の欠損・機能不全としてのインペアメントと、周囲の人々の配慮の欠如による無能力状態としてのディスアビリティを区別し、障害者が経験する困難の主要な原因を後者のディスアビリティに求めた。これに対して、モリス(Morris, 1991)やクロウ(Crow, 1996)らは、社会モデルがディスアビリティを強調するあまり、身体の差異に関する障害者の経験を無視する傾向があることを批判した。そして、モリスは障害者が自身のインペアメントを否定しなくても済むような障害観として、障害文化を提唱した。ここでは、否定され解消されるべき差異としてのディスアビリティと、否定される必要がない身体的差異としてのインペアメントを慎重に切り分ける作業が行われていることになる。  しかし、江原氏(1985)は、こうした差異の内実の吟味も、差異に対する評価の批判も、差別の根本的な側面を見落としていると批判する。彼女によれば、差別とは「当該社会の『正当な』成員として認識しないということ」としての排除行為であるという。本来排除行為は、いかなる根拠付けをも欠いているが、排除された集団に関して差異が強調され、その差異に劣った評価がなされ、それによって不平等な処遇がなされるところに差別が成立するという。差異の強調やその評価は後付けに過ぎず、差異は排除の標識となる程度にしか認識されておらず、また評価は排除されていることから遡って行われていると述べられる。ここでは差別の論理は二重であるとされ、意識化されない排除行為が差別の根本として一方にあり、表面上は差別の原因として意識化された差異や評価が他方にあるという構造になっている。差異の内実や評価の妥当性は差別の本質にあまり関係しておらず、差異や評価を差別を解く鍵と捉えて組み立てられた反差別の論理は、差別の根本的原因に届いておらず、また差異の否定か評価の変容かという運動の分裂を招くことになる点で有害ですらありうるとされる。  ここで改めて共生の位置付けについて考えてみたい。障害者解放運動において用いられた共生は、まずは社会的評価を無効化する試みであって、社会的評価に基づく選別への拒否であったことを先に述べた。しかし、それだけではなく、共生は排除行為を乗り越える試みでもあったといえるだろう。養護学校義務化阻止闘争が、発達保障論批判の先に目指したのは、どの子も「地域で健全児と共に」(全障連, 1977)学べるようにすることであった。また、三氏就労闘争を闘った人々は、障害者の不在が健常者の差別意識の根本にあるという認識のもと、能力に拘わらず障害者と健常者が「共に働き共に生きる場」(JIL, 2001)として労働現場を改革していこうと試みたのである。これらの運動は、様々な領域で障害者は健常者と共に集団を構成する正当な成員でありうると主張した点で、反排除としての共生を目指したと言えるだろう。  このように、ここで取り上げた共生は、二つの点で社会的評価としての差別に対抗する。第一に、この意味での共生は、人の存在と能力の善さを測定し、それを普遍的尺度として立ち上げる社会的評価に対して、価値付け・測定およびそれに基づく選別を拒否する。そして第二に、こうした共生は、差別の根本を社会的評価のみに見出す問題の立て方を乗り越え、排除行為への取り組みの重要性を把握し、共にある関係性を対置しようとする。  しかし、社会の諸領域に障害者を成員として位置付けていくという共生が、必ずしも社会的評価や差異の強調を解消するわけではない。障害者が社会のある領域の成員とされながら、優生思想や能力主義といった形をとる社会的評価が維持される場合もある。例として、アメリカの盲教育および知的障害教育の先駆者であるハウは、大規模施設化が進行する少し前に、卒業後の知的障害児は地域に返すべきだというコミュニティ分散論を主張した。その理由は、社会的交流を持たせることで人間としての発達が促進されることに加え、共通の障害を持つ者同士が長期間生活を共にすると、障害が強められるからいけないというものであった(中村, 1987)。また、周知の通りろう文化運動の立場から、統合教育に危機感が表明されている。統合教育は多数派としての聴者の中にろう者を孤立させ、手話の習得やろう共同体への帰属感を不可能にするものとされ、口話主義とさして変わりのないものとして捉えられる(Padden and Humphries, 1988=2003, 209-210)。ここから読み取られるように、障害者が健常者と共にあることが、インペアメントを持つこと、およびその身体を扱う方法としての身体技法(Mauss, 1968=1976)に対する否定的な社会的評価に結びつきうる、ということである。そして、こうした社会的評価は、健常者中心の集団からの障害者の排除として起こるというよりは、障害者同士の分離と結びついている。他の障害者と分離された障害者は、健常者の広い意味でのふるまい方を標準とする社会的評価の中に、発達途上の者として位置付けられ、手話などの自らの身体に有効な身体技法の習得を可能にする共同性を持つことができないのである。  そうだとすれば、排除にとどまらず、ある人々の間の関係が集中的に切断される傾向一般に対抗するものとして共生を捉え直す必要がある。そしてそこから、多様な身体や有効な身体技法が承認されるよう、社会的評価を共有された普遍的な尺度ではなくすことが目指されてよい。こうした意味で共生を捉え直すならば、それは同化や分離主義を生じることのより少ない反差別の論理として重要な意義を持ちうるだろう。 Crow, L., 1996, "Including All of Our Lives: Renewing the social model of disability", Morris, J.(ed.), Encounters with Strangers: Feminism and Disability, The Women's Press Ltd, 206-226. 江原由美子, 1985, 「「差別の論理」とその批判: 「差異」は「差別」の根拠ではない」, 江原由美子, 『女性解放という思想』, 勁草書房 花田春兆, 1991, 「ADA法やぶにらみ」(八代・冨安, 1991, 122-130) 全国自立生活センター協議会(JILと略記) 編, 2001, 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』, 現代書館 楠敏雄, 1998, 「共生教育を深める視点」, 楠敏雄 編著, 『自立と共生を求めて: 障害者からの提言』, 解放出版社, 85-102 Mauss, M.(1968), Sociologie et anthropologie. = (1976)有地亨、山口俊夫 訳『社会学と人類学』弘文堂。 Morris, J., 1991, Pride against Prejudice, Women's Press 中村満紀男(1987)『アメリカ合衆国障害児学校史の研究』風間書房。 Padden, C., Humphries, T.(1988), Deaf in America: voices from a culture. = (2003)森壮也、森亜美 訳『ろう文化案内』晶文社。 Sen, A., 1985, Commodities and Capabilities, Oxford University Press = 1988, 鈴村興太郎 訳, 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