2010年9月25日 障害学会第7回大会 於 東京大学 鳥は空へ、魚は海へ、人間は社会へ! ――府中療育センター闘争が投げかけたもの―― 深田耕一郎(立教大学) 1 「脱施設化」はいかにして導きだされたか 東京都立府中療育センターは1968(昭和43)年に設置された重度の障害児・者の療護施設である。障害者福祉の重点課題であった施設拡充政策の一環として建設され、「重症児たちに愛の基地」(『朝日新聞』1968年6月1日)と大きな注目を集めた。 しかし、「重い複雑な障害を持った児童も成人も収容する大規模な施設として、わが国で初めての試み」(東京都1970: 1)であったために、設立まもないころから様々な問題が生じた。そうしたセンターの処遇改善を求めて入所者が抗議行動を実践する。その一連の過程が府中療育センター闘争(以下、府中闘争)である。立岩真也が日本の障害者運動における質的な転換点として青い芝の会の登場と府中闘争をあげているように(立岩1995:179-192)、府中闘争は施設に入所する人達が自ら声をあげた最初の出来事であり、施設の構造的問題を明らかにし「脱施設化」を導きだす始点となった。 では、府中闘争において「脱施設化」はどのように導きだされたか。それはいくつもの現実との格闘のなかから少しずつ形作られていったのであり、それこそが「闘争」だった。また「社会」がつかみとられていく過程でもあった。 たとえば、「鳥は空へ、魚は海へ、人間は社会へ!」という入所者によって書かれたパンフレットがある。1971(昭和45)年4月12日、入所者はこれをもって日本社会事業大学の入学式に入りこみ、その式場で「障害者を抑圧する学生=職員を生産するな!」とアピールしたのだ。 ところで、上の表現には「社会」は施設の内部になく外部に存在するという認識がある。そして「社会」ではないと感受される場所からの解放が切望されている。それが「脱施設化」に具体化した。では、その過程はどのようなものだったか。本報告ではとりわけ入所者と職員のコミュニケーションに着目し「脱施設化」がどのように導きだされたかを考察する。そこから「府中闘争が投げかけたもの」を明らかにしよう。 2 施設という統治技法 施設における入所者と職員の主観的意味世界に光をあてた研究にゴフマンの『アサイラム』がある。ゴフマンによれば「全制的施設」とは「多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、相当期間にわたって包括社会から遮断されて、閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所」である(Goffman 1961=1984:D)。施設とは特定の人間を一般社会から「隔離」し、大量かつ局所的に「収容」したうえで、それらを最も効率的な方法で「管理」する統治技法だといえるだろう。 合理的な統治のために施設は入所者の自己を侵食する。たとえば、入所者のアイデンティティの剥奪がある。ふつう新来の入所者はそれまで親しんできた家郷世界の生活様式を身につけているが、施設入所とともに一個の物に仕立てられる。私物や私服などは没収され代わりに標準的支給品が配られる。外出や面会が制限され入所者は過去に獲得してきた役割を喪失する。こうしたアイデンティティの剥奪が「無力化の過程」である(Goffman 1961=1984: 15-6)。 この機制の執行者が施設職員だ。職員は自分たちが「優位にあり正義の味方である」と感じているのに対し、入所者は「劣位にあり卑小で・非難に値し・負い目がある」と感じている。統治は両者の「根源的裂け目」(Goffman 1961=1984: 7)を利用して行われる。「特権体系」と呼ばれる枠組みがそうだ。これは規則に従順に従う入所者へ付与される「特権」であり、特権を得た入所者は失われたアイデンティティを再獲得したかのように感じられるという。たとえば、タバコの授受がある。一般社会では容易に入手できるタバコも施設では入手困難だ。しかし、それは「表舞台」の話であり「裏舞台」ではちがう。「裏舞台」で職員は入所者に「今夜、俺、夜勤やから、静かにしてな!」などといって密かにタバコをわたす。両者は「お互いに煙をたゆらせながら『談笑』したりして、『裏舞台』での〈親密な関係〉さえも作り出されていく」(天田2008: 178-9)。施設はこのような「巧妙な仕掛け」によって入所者を自ら統治に従属する無力者へと変成していく。  だが、ゴフマンが描く共犯的な統治実践はこれだけではない。職員は入所者から遠ざかろうとしても「仲間であるという感情を、ときには愛情をすら覚える」ことがある。理由は簡単だ。目の前にいるのは生身の人間だからだ。そして次第に「入所者のうちの何人かと温かい包絡関係を作り上げてはならない理由は何もないことに気づく」。しかし、職員は入所者の苦しみを見るにつけ「自分も痛みを覚えるような立場に立つ」。入所者を物ではなく「人間に見えて来るという危険」が存在するのだ。ゆえに職員は「文書事務とか委員会の仕事とかあるいは他の主務日常業務に閉じ籠って」、親密さを避け疎遠さを保とうするだろう(Goffman 1961=1984: 85-6)。 つまり、職員は巧妙な統治技法としての〈親密な関係〉だけでなく、言葉の純粋な意味で「親密な関係」をつくろうとして挫折してしまうのだ。これは「人間を統治する人びとが不可避的に直面する古典的なディレンマ」だろう(Goffman 1961=1984: 81)。職員は「親密な関係」をつかみとろうとしながら、統治の完遂を優先するあまり自己の愛情を押し殺す。他方、入所者も統治のジレンマにさらされる。入所者は統治に抵抗を示そうとしながら、生存のために否応なく自らを無力化する。互いに自己を疎外してしまうのだ。 この相互疎外は施設という統治構造において不可避的に生じるだろう。府中療育センターにおいても相互の疎外関係があった。そしてそれを克服しようとする試みが府中闘争であったと思われる。では、どのような闘争が実践されたのか、以下に見よう。 3.対象と方法  本報告はインタビュー調査やドキュメント分析をもとにした質的研究である。報告者は府中闘争の中心人物であった新田勲(1940年生まれ、脳性麻痺の当事者)の介護を2005年8月から現在まで行っており、その参与観察を通して府中闘争にまつわる事実を収集してきた。また、府中闘争にかかわった関係者にインタビューを実施してきた。本報告ではこうした調査結果とともに当時頒布された資料をとりあげる。なお、以下では当事者の言葉使いにあわせて入所者を「在所生」と表記している。 4 闘争の内実 4.1 全制的施設としての府中療育センター 府中療育センターでは入所するとすぐ個室に入れられ身体の検査が行われた。死亡した際の解剖承諾書を書かされた。起床は5時半、就寝は20時。大部屋に16名が収容され、ベッドにはカーテンもなく外から病室が一望できる構造になっていた。外出・外泊は認められず希望する場合は親に許可証を書いてもらう必要があった。女性入所者は「職員が労働過重になる」という理由で髪を短く切られた。拒絶するとトイレで小突かれ「自分の尻の始末もできないくせに、一人前にお洒落なんて生意気だよ。面倒臭い。きっちまえ」といわれた。 新田によれば、在所生は入所後、生活の全局面が規則化された環境に順応しなければ生きていけないことを知る。不満をもってもそれを抑制する態度が固定化する。「がまんしている」という感覚すら鈍麻した。ゴフマンが「無力化の過程」と呼んだように在所生は従属することに馴らされていった。 4.2 ハンガーストライキの実践 だが、1969(昭和44)年、新田はセンターの管理体制に強い抗議を示し、その改善を求める行動をはじめる。一連の要求が直接行動となって現れる。1970(昭和45)年11月21日、看護科職員の異動が発表された。センターでは年に3回の勤務異動が行われていたが、この問題も新田らが改善を求める課題の1つだった。というのも、職員は在所生の生活を支える最も身近な存在である。言語障害が重く意思疎通が困難な在所生にとって職員と息のあう関係になるまでには相当の時間がかかる。職員との関係の実質は自らの生活に直結した。しかし、相互理解を深めるひまもなく異動してしまう。「手足をもぎとられるようだった」と新田は語っている。 この異動への抗議として、同年11月29日、在所生4名はハンガーストライキを起こした。「ハンスト宣言」の一部を引こう。 職員の勤務異動は決して私達と無関係なことではありません。今回の異動対象に「1階で勤務したい」という人達、それも私達にとって離れて欲しくない貴重な人達が含まれていることに対して、怒りの表現としてのハンストを今日から実行いたします。(中略)1階の職員の有志によって勤務異動についての問題提起ならびに討論をなさっていることに対して、心から敬意を示すと同時に、1階の多くの職員、そして在所生の多くが賛同の意思を示してくださることを期待しています。(大山・小野・名古屋・新田1970) ここには先ほどまで見てきた職員の姿とは別の職員像が現れている。1つに在所生に理解を示す職員がおり、在所生は「親密な関係」を形成しており「離れて欲しくない」と感じていること、3つに在所生の抗議行動に同調する職員がおり彼彼女らへの連帯が呼びかけられていることである。 4.3 職員の対応 では、職員はどのような意識をもっていただろうか。福祉指導員であった若林幸子は作成したビラのなかで「ハンストに大きなショックを受けた」と述べ、職員に次のように呼びかけている。 彼ら(入所者)と私達とは同じ管理抑圧機構の中で、お互い別々の人間としてわけられて存在させられていると私は思います。  彼らは常に私達より劣っている人間であるということを前提として私達は仕事をしてはいないでしょうか。(中略)もし私達がそういう気持ちで他人から見られているとしたら、私達はその人を信じられるでしょうか。私は信じられません。どんなバカげた失敗をしても、それから自分の力で立ち上がるのを暖かい目で、ゆとりのある態度で見てくれる人を私は信じます。そんなゆとりのある気持ちになれるような私達の職場でしょうか。人数も絞られ、トイレにいくのも気にしながらやっているような状況では、そんな態度はとれません。そうさせているのは何なのでしょうか。誰なのでしょうか。このビラを読まれるあなたとともに考えていきましょう。(若林1970) 若林ら職員有志は組合執行部に問題の解決を訴えた。執行部は異動の是非を協議する。しかし、組合内部にも意見の対立があり見解は容易にまとまらなかった。執行部はなんとか意見を集約し、センター当局へ異動のとりさげを求めた。だが、当局は組合の要求を受け入れなかった。大島一良院長は新聞社の取材にこう答えている。  当センターは、患者三人に対して、看護者二人が付くなど、現在の日本では最高の治療、社会復帰を図っている。今度の問題も率直にいって、組合、患者側の動向を含めて真意をよく理解できない。特定の医師、看護者と特定の患者が必要以上に親密になることは、臨床医学的にも病院管理上からも正しくないと考えている。(『朝日新聞』1970年12月14日) ハンストが5日目をすぎた頃、めまいや耳鳴りが起こり意識が朦朧とした。12月6日、組合は臨時総会を開き、職員の異動について方針を固めるために全体投票を実施した。結果、異動に反対が105、賛成が74、白票が3となった。それを聞いた新田は大きく安堵し、ハンストを解いた。 だが、翌日になって組合執行部は票決の結果を覆し当局に従うという方針を示す。異動は実施された。看護助手であった松本隆弘はこのとき「真に労働者の利益を代表する労働運動を」というビラを配布し当局と組合執行部の姿勢を批判している。 障害者と毎日接している者にとって、もし今度のハンストの行動を理解できないとすれば、いかほどに彼らに対し善意で接していったとしても、障害者の要求についてまったく理解は不可能であろう。このことは、労働者が現場で管理体制の行動部分として存在し、かつ労働者が差別構造のなかにおいて障害者を差別することによって存在させられているということである。 (中略)ここに現在の労働運動の限界と、今後どう突破するかが問われているのである。このような立場からするならば、障害者の要求は全面的、無条件に支持し、彼らの自ら決定する権利を認めることである。(松本1970)  まとめると、1つにハンストは在所生に応答する職員有志を生んだ。2つにしかし、組合執行部が最終的には当局の方針に同調したように、多くの職員は在所生に共感的ではなく、職員有志の数は限られていた。3つにそれでも若林や松本の記述は興味深く、若林は相互疎外に自覚的であり、その関係を超えようと訴えている。松本は職員が施設労働の最下層に位置する被抑圧的存在であり同時に障害者を抑圧する両義的立場を認識している。4つにそうした位置にある職員が真の労働運動を展開するには、障害者の要求を全面的、無条件に支持し自己決定権を承認するべきだと主張している。 4.4 腰痛問題という現れ    異動問題は根本的な解決がなされないまま、1971(昭和46)年1月、職員の腰痛が多発する。病欠、退職が激増しセンターは閉鎖の危機を迎えるまでになる。当局は緊急的に在所生の帰宅やパートタイムの雇用などの措置をとったが、それは在所生の生活介護を縮小するものでしかなかった。 職員にとって腰痛の根は深い。在所生のために働こうとすればするほど身体を痛めつける。他方、介護を放り出したり、その原因を在所生に帰責すれば在所生の存在を否定することになる。腰痛とはこのジレンマが身体に生じるきしみだ。そんななか若林は疲労を避け持続的に働くためにはどうすればよいかを考え、見出してきたと述べる。 私は障害者をもちあげたり、運んだりする中で、彼らの体と私の体を離していたのでは疲れることを知りました。彼らの動く動作・体位にあわせて動くことが一番楽なのです。(若林1971) 多くの場合、センター当局のように労働を分散・縮小する対策がとられる。だが、若林がいっていることはまったく逆だ。身体と身体を近づけることが最も快適だというのだ。 結局、1971年4月に大量の人員補充が行われ一応の解決は図られた。新田がこの問題を批判した文章に次の記述がある。  施設ばかりが障害者の生きる場ではないと私にははっきりいいきれます。「施設」ではない、障害者が真にいきいきと生きていける場を作っていけるのは親と施設労働者と障害者自身しかいません。(新田1971) ここには「親」や「施設労働者」とともに生きられる場所が「施設ではないどこか」にあるという確信が見え始めている。つまり、「脱施設化」は、職員との共同実践が他者との連帯可能性を在所生に認識させたことで導きだされたといえる(1)。 4.考察とまとめ――人間の連帯可能性 以上から明らかになったことをまとめよう。1つに府中療育センターは全制的施設としての特徴をもち、入所者と職員の「根源的裂け目」ははっきりとあった。 だから2つに施設を「生活の場」へと改善する方向が模索された。入所者は抵抗する主体へ、職員は在所生に応答する主体へ変容することで、施設を入所者と職員がともに尊厳をもって生きられる場所に転換することがめざされた。府中闘争とは、入所者と職員が互いに自己を抑圧してしまう「疎外関係」を克服し「親密な関係」へと編み直そうとする実践だった。 3つにこの実践は労働組合や施設構造を劇的に変えることはなかったが、ハンスト、腰痛問題における職員有志との連帯をつうじて、自己決定の承認や身体の近接といった実践知が見出された。その過程から「脱施設化」は可能だとする認識、つまりは「社会へ」の道筋が導きだされていった。 以上から府中闘争が投げかけたものは、第1に施設という統治技法は人間を疎外するという事実であり、その意味で「脱施設化」が志向されることになるが、第2に施設か地域かという二分法以前に、こうした統治する/される関係に支配される場所においても、人間は連帯可能性に開かれているということだったと思われる。 註 (1)この後、センターの移転問題に対する抗議が起こる。本報告では府中闘争の前期しか扱うことができなかったが、以後の移転阻止行動については別稿を期したい。 参考文献 天田城介,2008,「老い衰えゆくことをめぐる人びとの実践とその歴史──私たちが自らを守らんがために現れてしまう皮肉かつ危うい事態について」上野ほか編『ケア その思想と実践2 ケアすること』岩波書店: 173-198. Goffman, E., 1961, Asylums: Essays on the Social Situation of Mental Patients and Other Inmates, New York: Doubleday and Company Inc.(=1984, 石黒毅訳『アサイラム――施設入所者の日常世界』誠信書房.) 松本隆弘,1970,「真に労働者の利益を代表する労働運動を」. 新田勲,1971,「二度と同じことを繰り返すな!!」. 大山文義・小野広司・名古屋足躬・新田勲,1970,「今回の不当勤務異動に対する抗議ハンスト宣言」. 立岩真也, 1995,「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」安積ほか『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学[増補改訂版]』藤原書店: 165-226. 東京都,1970,『東京都立府中療育センター』. 若林幸子,1970,「職員の勤務異動に関する問題への一階障害者のハンストをどのように受けとめるか?――私の考え」. ――――,1971,「私達もがまんできない――非常事態を私はこう考える」.