■11 「できないこと」はどう位置づけられるのか──共同連における議論の分析 青木千帆子(立命館大学) 1. はじめに  本研究の目的は、労働の場において「できないこと」がどのように語られ、位置づけられているのかを確認することにある。 1.1. 社会モデルと「できないこと」の位置  障害の社会モデルは、障害が社会的に構築されるものであると主張してきた。障害の生起点はインペアメントではなく、社会組織がインペアメントのある人々を考慮しないために引き起こされる活動の不利益や制約、つまりディスアビリティ(disability)である。そして、その解消に向けディスアビリティがどのように社会的に構築されているのかを分析する取り組みが、障害学においてなされてきた。 このような「社会モデル」という視点をめぐっては、多くの議論がなされてきた。ここでは、星加(2007)の「できないこと」をめぐる指摘に注目したい。  ここで社会のあり方、すなわち「できなくさせる社会disabling society」が問題とされるのは、「できないこと」を否定的に捉えているからである。このように、ディスアビリティを否定的に意味付けるという限りにおいて、「個人モデル」と「社会モデル」は同じ地平を共有している。対照をなすのは、その原因の帰属先と働きかけの焦点である。このコントラストは、解消努力を誰に要求するのかという問題に影響を与えるとともに、ディスアビリティを解消しきれない場合(通常完全には解消しきれないわけだが)に、否定性を付与される主体を名指す効果を有するという点で、重要な意味がある(星加, 2007, p43)。  星加による指摘は、今日もなお決着のつかない問題として議論される、知的障害者に関する問題、そして障害者の労働に関する問題へとつながっている。知的障害者は、「やりたいことをやり、生きたいように生き(立岩, 1999)」自律的な自由を達成する、まさにその部分にインペアメントを抱える人々であり、労働は、「仕事が仕事である以上要求するものがある。あらゆる仕事はできる人とできない人を作り出す(立岩, 1995)」性質のものである。そこには、想定しうる社会的障壁を解消したところで、なおも厳然と「できなさ」が残る。 「個人モデル」はディスアビリティの起源をインペアメントに求め、これを克服して「できる」ようになることを個人に要求する。「社会モデル」はディスアビリティの起源を社会的障壁に求め、これを解消して「できる」ようになることを社会に要求する。「社会モデル」の主張によってその認識論的差異、そして解消責任の帰属先の差異が論じられる一方で、「できないこと」の価値は「できないこと」のままに放置されているのである。 1.2. 生き方を純化しないという戦略  石川(2002)は、同化−異化/統合−排除 という2組の二項対立を用いて、次のように今日の社会のあり方を措定している。 私たちの社会は、同化には統合で報いるが、異化(同化しないこと)には排除で応える。それはある種、社会と個人が取り交わした契約のように感じられている。ところが、同化を達成しても、秩序に順応して適切にふるまっても、社会は障害者を排除し続けている。すると、同化的な努力を続けてきた障害者にとって、約束違反が起きていると感じられるようになる。  この実感をどのように受け止めるかによって、それぞれの障害者が向かう方向は一変する。一つは平等派や統合派などと呼ばれ、社会の約束違反を指摘し、約束を果たすよう社会に要求する。もう一つは、今までのような克服努力は続けないという選択である。異化の方向に向かって積極的に「再出発」する。その最も積極的なものは「障害文化」の構築であり、あるいは再評価であり、差異派、文化派と呼ばれている(石川, 2002)。  石川は、異化の方向に向かって再出発する取り組みを手放しでは評価していない。同化を代償とする統合が、同化を代償としてもなお実現しなかったからといって、排除を代償とする異化を目的とすることは正しいことなのかと問う。統合要求をせずに自文化の構築・再評価だけを目指したのでは、同化と異化にかかわらず社 会は障害者を排除するつもりであることは再び隠されてしまう。そして、「平等要求と差異要求、(中略)どちらかに生き方を純化しないという戦略を考える(石川, 2002, p39)」という結論に帰着する。 1.3. 原点へ戻る 「寝たっきりの重症者がオムツを替えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとっての即ち重労働としてみられるべき(横塚, 1972=2007; p56-57)」という発言は、障害者自立生活運動の中で繰り返し「社会」に向けて発信されてきた。それは、「できないこと」をそのままに認め、障害者のあるがままの姿を受け入れるよう要請する言葉である。このような声は、石川の指摘する「異化&統合」への取り組みの代表的なものとして、位置づけられよう。 同化主義的社会に備えられた価値観に対し、同化するのか異化するのかという二者択一のジレンマを抱えた状況から、どちらも選ばずに「異化&統合」を求めるという石川の発想。それはつまり、「できる」ようになるか「できない」ままでいるかという二者択一ではなく、障害者運動で訴えられた価値によって、その自明のものとされてきた社会的リアリティに新たな意味を付け加えたり、その社会的リアリティとは別のリアリティを作り出したりすること(田中, 2005, p21)である。このような取り組みは、同化−異化/統合−排除をめぐる2次元上で展開されていた取り組みに対し新しい次元を加えようとする、言い古されたが、しかし達成はされてこなかった取り組みであろう。 そこで本発表では、障害者運動の歴史を振り返り、「異化&統合」を求めるという前提の中で、どのように「できないこと」の価値を認めようとしてきたのかという点を確認したい。そして、そのために必然的に「できる人とできない人を作り出す(立岩, 2001)」労働を、あえて取り上げ、労働の場において「できないこと」の価値がどのように位置づけられてきたのかを振り返る。 1.4. 「共同連」の概要 本発表で注目するのは「共同連」である。共同連は、正式名称を「差別とたたかう共同体全国連合」という。1984年に結成、2001年にNPO法人化した。1984年結成当時より「共に働き、共に暮らす」をスローガンに一貫して障害者の労働権保障に取り組んでいる。 活動の内容としては、事業組合活動1、共通商品の開発と販売、マイクロファイナンス2、学習や議論の場の展開3、年に2回の中央省庁交渉、機関誌の発行である。 注意しておきたいのは、「共同連」の運動は、青い芝の会に代表される障害者自立生活運動とは一線を画している点である。その一線とは団体運営における障害者と健常者の関係性であり、障害者のみが団体を運営するのではなく、障害者も健常者も対等な関係での団体運営をめざした。それゆえ当初「共同連」の前身団体は、「共同体運動」を名乗っていた4。 従って、障害者運動との交流はあっても1976年に結成された全障連には参加していない。しかし、「共同連」事務局長である斎藤縣三氏によると、労働に関する議論においては、全障連結成時会長であった横塚晃一氏と後に共同連を結成する人々との間に共通性があったという。このことから「共同連」と「全障連」は異なりを持ちながらも相互に関わり続けている。その関わりは、全障連大会報告集の各分科会基調を共同連のメンバーが執筆するという形になって表れている5。そこで、本発表は「共同連」結成以前における、後の「共同連」の運動に影響を及ぼした議論を表す資料として『全障連大会報告集』における労働に関する議論を取り上げている。 2. 方法 2.1. 対象 1983年〜2009年にNPO法人「共同連」より発行された機関誌『共同連ニュース(1-90号)』『れざみ(91-123号)』、1976年〜1989年に全障連より発行された『全障連大会報告集(1, 5, 9, 10, 12, 13, 14,)』、1978年〜2009年に発刊された『季刊福祉労働(1-126号)』に掲載された共同連に関連する記記事を分析の対象とした。 表1. 障害者の労働権保障を求める団体結成年表 1976 「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」結成 http://www.arsvi.com/o/zsr.htm 1977 「共同作業所全国連絡会(きょうされん)」結成 1980 「障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議」結成 http://www.arsvi.com/o/sdr.htm 1981 「差別と戦う共同体全国連合(作共連)」=共同連準備会 結成 1983 「障害者職よこせ要求者組合」結成 http://www.arsvi.com/1900/8306syk.htm 1984 「差別とたたかう共同体全国連合(共同連)」結成 http://www.arsvi.com/o/kdr.htm 2.2. 手続き  『共同連(1-90)』『れざみ(91-123)』『全障連大会報告集(1, 5, 9, 10, 12, 13, 14)』『季刊福祉労働(1-126)』に掲載されたすべての記事に目を通し、「できないこと」に関する記述を抽出した。同時に、「できないこと」の位置づけと連動して労働がどのようにかたられているのかを確認するため、「労働とは何か」に関して論じている記述を抽出する。これらを時系列に並べ、分析した結果を基に「できないこと」「労働とは何か」を述べる言説が、どのように変化してきたのかを確認した。 3. 事例 3.1. 70年代の議論:障害者独自の「労働」観を打ち出すべし  「労働とは何か」という問いは、障害者自立生活運動において当初から議論の遡上に上っていた。例えば全障連結成大会において、次のような議論がなされている。 労働の概念とは何か、とりわけ資本主義社会の労働の概念とは何か。それは賃労働と資本との関係である。(中略)だから、資本主義社会の中では労働価値を生み出さないといわれる重度障害者は、当然のこととして社会的労働から排除されている。また軽度障害者は能率が悪いとか生産性が低い、という理由で悪条件を強いられている。 では、労働力商品として成り立たず労働価値を生み出さないといわれる重度障害者はどうしたらいいのか?(中略)われわれ障害者は資本主義社会での賃労働と資本の関係を問い直し、障害者にとっての労働概念を作り出し、障害者の「自立」と「解放」の思想を作り出していかなければならない(筆者不明, 1976,『全障連大会報告集』1: 149)(以下、引用文中の括弧内は調査者による補足)。 重度障害者は一人で大小便を始め多くのことができない。ここに重度障害者の存在価値があり、重度者でないと果たせぬ役割がある。その生こそ、重度者にとっての真の労働であろう。まさに、労働とは、その原始形態がそうであったように、人間が、共に生きていく以上、共同社会のあり方にとって必要な行動、営みすべてを意味する。 地域社会は悪霊のような労働に取り付かれているゆえに変革を必要とする。そして障害者こそ、その生そのものから、変革のために必要な労働の役割をもつ。この役割を障害者(重度程)以外に誰がになえるというのか(筆者不明, 1976,『全障連大会報告集』1: 172)。 表2. 共同連結成宣言  60年代末、全国各地で障害者自らの決起が大地を揺らし始めた。それは隔離施設の矛盾を突き、選別の養護学校を拒否し、障害者の生存を否定する「健常者社会」を告発する叫びであり、初めて「障害者」に対する差別の問題として世に問う声であった。現行資本制社会の中で障害者が施設や家庭に閉じこもることなく、地域の中で、生活権、労働権を確保することが、いかに困難な事業であるか。 以来10有余年、われらは自らの独自の生き方―施設のごとき管理の場ではなく、また企業のごとく搾取の場ではなく、われらの共通の理念である。一切の差別を許さず、「障害者」「健常者」の平等な関係を求めて、生活の場、労働の場を築くこと―を育ててきた。しかるに、われらの力足りずして多くの仲間は、未だ一人の市民として、一人の労働者として認められることなく差別に喘いでいる。  されど、差別と抑圧の歴史に抗するわれらは、軍備増強と福祉切り捨ての今こそ、多くの仲間の参集をえて、一層「共働」「共生」の営みを期せる時をえた。この全国連合は必ずや、われらの翼を大空にかけめぐらせ、地上の差別をうち砕く、たたかいの未来を約束しよう。  われら本集会参加者一同は以下のごとく宣言する。 ・われらは障害者に対するあらゆる差別を許さず、差別との不断の闘いを担う。 ・われらは、障害者、健常者それぞれが一人の人間として対等、平等に生きる関係をめざし、それをはばむ人間意識、社会構造の変革を志す。 ・われらは共に働く場、生活する場をつくり、実践し、その拡大、発展を通じて社会全体を共に生きる場としていくために全力を尽くす。 1984年10月21日(日) 差別とたたかう共同体全国連合 結成集会参加者一同 3.2. 80年代の議論:「新しい労働」の実践と問題  1981年には、「完全参加と平等」をスローガンとする国際障害者年を迎える。労働を基準として価値や意味を付与される側に甘んじることで、自らの存在証明においてジレンマを抱える時期から、逆に今ある労働を否定し障害者独自の労働観を打ちだそうとする発想にたどりついた人々は、その実践へと運動の方向を変えていく。 時期としては、1975年「身体障害者雇用促進法」の改正により障害者の雇用が義務化される。障害の軽い障害者は企業に雇用され、障害の重い障害者は作業所へ所属する流れが形成され始めていた。この流れの影響もあり、1980年代初頭の「労働」に価値や意味を問い返す取り組みは2つの方向性を示すことになる。一つは、事業所に雇用された障害者が不当な差別を受ける現実に対する抗議運動6。もう一つは、「新しい労働の場」や、共働作業所を舞台に障害者独自の労働を実現しようとする取り組みである。 このようにして、共同連を筆頭にさまざまな団体が結成される。表2.に共同連結成宣言を示す。『共同連ニュース』『全障連大会報告集』『季刊福祉労働』には、このような「新しい労働の場」作りの実践例がいくつも報告されている。そして、この実践の中で「労働とは何か」を繰り返し問い続けている様子が見られる。 私たちの作業所では所員全体で一つの労働を生み出す、という考えで労働というものをとらえています(原田, 1983,『季刊福祉労働』20: 46-49)。 一つに障害者と健常者の平等性、二つに障害者の主体もった自立性、そして地域に開かれた拠点としての解放性という三つの原則を大事にしているか否かであり、その差は主観的な思いを超え、実際の運動と運営における決定的な差を作り出している(斉藤, 1987,『季刊福祉労働』37: 55-64)。 しかし、実践を積み重ねるにつれ、自分たちの思い描いていた「新しい労働の場」が内包する問題点も見え始める。 一言で表現すれば自転車操業である。 アドの賃金形態は、他の共働事業所と異質的な方法で、タイプ一字打って一円であるが、それの20%がアドの経費としてプールされて、結局は事実上80銭計算となり、出来高払いである。これは資本主義、能力主義を助長するものであるが、これも仕方がないことなのだ。 全員に月一定の金額を配分する金額的余裕は、現在のところ全然ない。(田口, 1984,『全障連大会報告集』9: 122)  「作業所」をつくってはみたものの仕事が減ったり、収入が減ったり、せっかくの「場」の維持すら困難になる所もあるなど、経済的な面からいっても単に作ればよいでは済まされない質の問題が問われてきている。(中略)。働く場の前途を考えるとき、その仕事や経済的基盤の事業をどう作っていくかは重大な問題となってきている。(中略)  みんなで食べていけるだけの収益は上がっていない。(中略)だれもが、その人のペースで働いて、みんなで食べていける金を稼ぎ出せないである。(中略)もともと効率が「悪い人」が集まり、効率を気にせず働いてかせぎだせるはずはなく、それぞれの生活給をどう手にしていくかは、切実な問題である。(中略) 「重度」といわれる人も多く、現状では、「はたらくこと」イコール「かせぎだす」ことにはなりきれず、どうしても「たまり場」的イメージになってしまう。(なまずの会7, 1987, 『全障連大会報告集』12: 177) 顕在化してきた問題を整理すると、一つは経済的な問題であり、一つはつき合い方、すなわち「共に働く場」としての質、在り方の問題でした。(中略) 「共に働く場」「メモル8」の存在を、多くの人にアッピールしたい、経営も安定させたいという思いで、この間ひたすら販売先の拡大をめぎしてきました。(中略)(すると、)長時間労働と効率性が要求されてきます。すなわち、効率の悪い者がはじきだされかねない事態になってきたのです。 しかも、それでもなお、そこで働く者の生活保障には程遠い金しか稼げないというのが現実でした。(中略) それぞれが「共に」を念頭において「働く場所」でそれぞれの役割をどう担っていくのか。もちろんそこでは、物を作り出す過程の一部分を具休的に担うという意味だけでなく、極端にいえば、そこに居るだけの役割もあるだろうし、場合によっては邪魔になるだけということもあるでしょう。そんなさまぎまな存在を、私たちが、無前提に、そして強固にもたされてきた(働く)=(稼ぐ)という価値基準を乗り越え、認めあえる「場」として、いかに位置づけていくのか(なまずの会, 1987,『季刊福祉労働』36: 135-139)。 つまり、80年代に入って盛んに創り出された「新しい労働の場」は、80年代末にはその問題点として経済的な問題に行き当たったのである。障害者が労働することを否定する1970年代青い芝の会の主張は、労働概念を否定することに対して矛盾のない一つの結論だったといえるだろう。しかし、自立生活運動を通して地域に出、脱施設を果たした先に待っていた課題は、生産性によって存在の価値を評価されることを拒否しながらも、参加や自立を達成するための手段としての「労働」を求めるという、困難な課題であった。 しかし、労働が労働である以上要求するものがあり、できる人とできない人が発生することを回避することは不可能である。この判断を回避して事業を続けるならば、参加しようとしていた場にあるやり取り、つまり、求められているものを提供することも危うくなる。 その一方で、「身体障害者雇用促進法」が「障害者の雇用の促進などに関する法律」へと1985年に改正された。この改正で職業リハビリテーションの推進が位置づけられていたことから、「職業前訓練」をするための小規模作業所も増設されていた。そして、この小規模作業所が、同じ作業所という名目ながらも、「新しい労働の場」として作られた作業所とは別の、いわゆる「福祉的就労」と呼ばれる就労形態の舞台になっていた。その施設数は1985年の848ヶ所から2006年の2294ヶ所まで増え続けている(図1)9。 3.3. 90年代の議論:賃金を保障せよ それでも「共に暮らし共に働く」という形の「労働」にこだわり続けること、そしてたどりついた経済的な行き詰まりについて、それまでの運動を振り返る作業が、各団体との議論を交えながら展開されていく。 「なんであんた働くの?」という滋賀青い芝の会からの質問に対して議論沸騰。「『働かざる者食うべからず』という健全者の労働観をどう思うのか、青い芝の会が否定している労働とは健全者の文化であるところのそれである」「それならば、『労働しない』と言うのではなくて障害者の労働はこれや、ということを言っていくのがいいのではないか。生きていくために、すぐ売って金になる賃労働をせざるをえないのも現状。けれども生活保護をとるのも憲法で保障された当然の権利。「「親は敵」論は健全者の親のことを言っているので、子が健全者ならやはり子から差別される」けれども青い芝の会の人達も結局は健全者とも共に生きようともがいてきて、それでも裏切られて裏切られて、健全者社会への激しい抗議の姿勢をとらざるをえなかったのだということが分かるにつれ、なんだ同じじゃないかという和解の雰囲気が場をおおってくる.「本来の労働とは、能力のあるなしにかかわらず、お互い助け合って生きていこうということが原点にあるのではないか」「障害者が生きていることが労働一障害者の労働観といったものを確立していこう」「一般雇用は一番必要」といったことが結論か(大会実行委員会, 1994, 『共同連ニュース』45:3-4)。 共働事業所に於いても然りである。共作連の作業所を批判することは、容易いし、溜飲も下がるが、翻ってみると、共同連傘下のどれだけの"場"が、障害者に最賃等を保障しているというのか?端っからの思いは、確かに共作連の諸君とは違う。少しは分配する額も多いだろう。しかし、思いだけでは腹もふくれん。高い分配といっても生保を下廻るようではメシは食えん。この現実を見据えつつ、見据えるからこそ、労働行政に責任をとらせることが急務なのであり、それを切り拓く私たちの武器が、共に働く場であったのだと思う(筆者不明, 1994,『共同連ニュース』45:5)。 かくして共同連は、経済問題を解決する責任を行政に求める議論にたどりつく。そして中央省庁へ「賃金保障」「保護雇用」を求める働きかけを開始する。 共同連:労働省は事業主さん対策やと言われるが、障害者の働きたい、働くという要求の権利の意味合いで考えたときに、そちらのほうを具体的に考えた施策が欲しい。(中略) 共同連:我々のいっている働く場の意味と厚生省の助成金を貰っている作業所の意味と違いますので混同しないで欲しい。我々の働く場というのは労働者としての働く権利が保証されて、働く場を作るということを目的としている。 労働省:実際の生産性は低いのだから、例えば、2,000円の工賃しかならないのにどうして給料を払うのか、年金とどのように違うのか。 共同連:年金は障害者であるということだけででる。働くんだけれど今の資本主義の社会の中で十分かせげれないというぶんを補填するだから意味が違う、小泉さんの給料はどこからでているのか、税金からでているんでしょう。だから一緒じゃないですか。障害者も一生懸命仕事をするけれども十分かせげれないということで給与保証をするということ、小泉さんも給与保証をされているが、障害者はされていない。 労働省:年金生活ではだめになりますよ。働いて稼ぐといいんですよ。基本的にはそういうことでしょう。 共同連:障害者を多数雇用しているところに公的な助成や融資をするということは問題のないことで、障害者が働けるようになって行けば良いと考えている。(筆者不明, 1990, 『共同連ニュース』18-2: 5-14) 斎藤:私どもが作り出している事業、企業というものは、そういう(常時介護を要する)障害者をたくさん入れているわけですね。すると特に介助とか言わなくても、わたしたちの仕事の中で、絶えず介助しているわけですよ。それこそ仕事中にウンチや小便するやつがいますからね。そんな人は、絶対普通の企業では雇ってくれないけれど、わたしたちはそういう人たちでも、働きたいということで、一緒にやっているわけですよね。そしたらウンチや小便の世話もせなあかんわけで、そんなことは、あなたたちは福祉のやることだと、思うかもしれないけども、それが障害者が働く、生きるということで、そういうことも含めて、わたしたちの平等の場が成り立っているわけです。だから介助者は永久的にいるわけです。そういうことを考えて、援助してもらえば、重度の脳性マヒとか知恵遅れを含めた雇用につけない障害者の雇用が可能になるわけですから、そういう事業主には、しっかり援助してほしいと、わたしたちは申し上げているわけです。(筆者不明, 1991,『共同連ニュース』23:3-10)  しかし、労働省は「ノーマライゼーションという考え方からして一般とは違う雇用の方式を基本に据える考え方の問題(筆者不明, 1990,『共同連ニュース』18-2: 5-14))」を理由に、給与補填や保護雇用制度を一貫して拒否し続けている。 90年代はADA法成立などによる国際的な議論の影響もあり、国を挙げて障害者の労働問題に取り組む国の動き自体は盛んな時期であったといえる。1995年には障害者プラン(ノーマライゼーション7か年戦略)も策定されている。しかしその実態は、できる人は一般就労、できない人は福祉的就労という振り分けをした上で、就労の場で求められる能力に近づくための訓練経費や支援経費を公的負担で行うという対策であった。つまり、80年代に「新しい労働」として主張された「労働を障害者に合わせる」という考え方に基づいたものではなく、「障害者を労働に適応させる」という考え方に基づいたものであり、いわば自立生活運動以後脈々と議論され提示され続けてきた障害者にとっての「労働」のあり方を完全に無視するような帰結だったのである。 このころからリハビリテーション系の雑誌において、障害者労働の支援が優れた実践として報告される件数は増えていく(例えば清家, 1996; 大久保, 1997)10。そして障害者労働が称揚される現実は、「学校が終わったら『どこかへ出ていかなければ』、『その次は自立へ』(中西, 1998)」という流れを完成させつつも、その流れの中にいる人々に漠然とした不安を抱かせていた。 求職活動を通して、就業や「自立」に価値を置き過ぎていないか、能力による選別がなされるようで危なくないかと強く感じるになった。(中略)働きたくても働けない人は世の中大勢いる。娘もそんな中の1人に過ぎない。(中略)だからといって「障害者」としての働く権利を掲げて就労の場を確保しようとすることは、特別な枠の中に囲い込まれることを是認することのように思われる(中西, 1998,『季刊福祉労働. 81, 64-71)。 障害者計画の中に、「社会参加」という言葉は使われているものの、その曖昧な言葉の中身の論議をこそつめていく必要があるのではなかろうか。作業所や養護学校へ通うことまでもが「社会参加」とされているのが現行の障害者プランであり、それを基盤に今後の福祉の在り方が決められようとしていることこそが問題である。(中略)社会のほとんどの人がたどる〈学校から職場〉というコースから、障害者はあらかじめはずされている。その代わりに与えられているのが、養護学校という「学校もどき」と作業所という「職場もどき」である。学校と職場をはずしたところで語られる「社会参加」とは一体なんであろうか(木村, 1998,『季刊福祉労働』81: 41-48)。 3.4. 2000年代の議論:  90年代の帰結は、大局的にみるならば運動の敗北といえるだろう。しかし、局所的にみるならば、共同連傘下の各場では「共に暮らし、共に働く」が成立し維持されている。そのような中で、20-30年前に思い描いていたかたちに社会がたどり着いていない現実をどのように評価すべきか、自問自答する姿が垣間見える。以下、共同連の構成団体である「わっぱの会」「よろず屋」それぞれの代表を務める斎藤と木村による号をまたいで交わされた議論を確認する。  1970年代から起こってきた「共働作業所」「小規模作業所」運動は、結局、障害者に毎日行く場、通う場を保障したけれども、何ら労働権保障はできませんでした。いわゆる、福祉的就労の場になっているのです。そのような現状に対して共に働く場づくりを志す場が同時に一九七○年代より生まれてきました。それが結実したのが一九八四年の共同連結成であったのです。  決して障害者が働く場がないから「共働事業所」があるのではなくて障害者を労働から排除せざるをえない現代社会に対して、どうすれば障害者が働けるのかを指し示す運動です。更にいえば労働そのものが人間にとって単なる金もうけの手段になってしまう社会の中で人が生きることの本質を改めて問う運動としての可能性を持っていえると思います(斎藤, 2001,『共同連ニュース』83:11-12)。  マラソントークでの私の発言の主旨は ・授産施設・福祉作業所の何を問題としてきたのか ・「共に働く」をどう社会化していくのかの二点でした。(中略)  私が気になっているのはその中身ではなく、 しつこいようですがそれらを語る土俵の狭さの問題なのです。 「一般就労への支援の可能性が共働事業所づくりよりもはるかに大きいかといえばそうはいえないでしょう」と述べられていますが、一般就労と分けたところでの共働事業所というのが私にはよくわかりません。一般就労の中には会杜組織もあれば、個人商店や農家もあるし、協同組合もあればベンチャー企業もあります。障害者だけが集められている特殊な場(福祉的就労)に対して一般就労と言ってきただけで、本来「一般就労」という言葉も変と言えば変で、単に就労と言えばよいのかもしれません。就労支援は「共に働く」ための支援であり、そこには当然人間が尊重される労働形態の模索も内包していると考えています(木村, 2001,『共同連ニュース』84:11-12)。  (わっぱを始めた当時の話に触れ)その先に障害をもつ人もそうでない人も一緒に働くパンと喫茶の店が名古屋のあちこちに点在する夢が見えていました。  ところが今の環実はそれとは程遠い飯にあります。障害者の数ばかりが増え、一つの集中した所でのパンづくり、そして売上げは全くの頭打ち、異物混入に頭を抱える毎日。何が間違ったのだろう。(中略)あちこちに店ができて、あちこちに売りに出かけて障害者が一つの場所に留まらないということ は夢想に終わってしまったのです(斎藤, 2001,『共同連ニュース』86:10-11)。 障害者をめぐる政治経済状況は、2000年に入り周知のように急展開を見せている。2003年に支援費制度が施行され、その後すぐに2006年には障害者自立支援法が施行された。共同連における話題も、めまぐるしく変わっていく制度に対応すべく、制度研究や制度をめぐる議論が中心となる。 奇しくも経済状況の混乱は、労働問題を広範な層の健常者を巻き込むようになった。労働をめぐる議論の高まりから、90年代初頭から共同連が主張していた「賃金保障」「保護雇用」制度が、一般の労働者の求めるものと重なるようになる。そして議論や運動の中心は、保護雇用色の強い社会的事業所制度の設立を求める運動へと移っている。 4. 考察 4.1. 障害者の労働をめぐる議論の変遷 以上、共同連における議論を中心に、障害者の労働をめぐる議論の変遷を確認した。70年代〜80年代は、現在ある労働を否定し、障害者独自の労働観を模索した時期である。しかし、80年代後半になると、その取り組みは経済問題に行き当たり組織を維持できなくなる。また、国際機関からの圧力により、政策として障害者労働に取り組む動きがみられるようになる。しかし、小規模業所は増えても、そこは新たな囲い込みや隔離の場所となり、最低賃金法除外規定の対象となるなど制度的にも隔離される現状が浮き彫りになる。90年代に入りできる人は一般就労、できない人は福祉的就労という振り分けにたどりつく。結局労働に障害者が合わせる形でしか制度は整備されず、参加も達成されないという2000年代の現状において、障害者独自の「労働」のあり方を示し、社会を変えていこうとする取り組みは行き詰っているようにみえる。  しかしその中でも共同連は、「共に暮らし、共に働く」というスローガンのもと、平等性(収益を平等に分配するシステム)、自立性、解放性と呼ばれる独自の労働スタイルを、今日も一貫して維持し続けてきている。 4.2. 「できないこと」はどう位置づけられていたのか 今回分析の対象とした機関誌を見る限り、できないことは一貫して「できない」と描かれている。 重度障害者は一人で大小便を始め多くのことができない(全障連, 1976) もともと効率が「悪い人」が集まり、効率を気にせず働いて(全障連, 1987, 66-177) 障害者も一生懸命仕事をするけれども十分かせげれない(筆者不明, 1990: 5-14) 仕事中にウンチや小便するやつがいますからね(筆者不明, 1991, 3-10) 異なるのは、「できないこと」をできないと描いた上で続く言葉である。 ここに重度障害者の存在価値があり、重度者でないと果たせぬ役割がある(全障連, 1976) 効率を気にせず働いてかせぎだせるはずはなく(全障連, 1987, 66-177) 効率の悪い者がはじきだされかねない事態(なまずの会, 1987) 思いだけでは腹もふくれん。高い分配といっても生保を下廻るようではメシは食えん(筆者不明, 1994: 5) 十分かせげれないということで給与保証をするということ(筆者不明, 1990: 5-14) それが障害者が働く、生きるということ(筆者不明, 1991, 3-10)  ここにみられるように、「できないこと」の評価は一貫して両義的である。「できないこと」は、「ここに重度障害者の存在価値があり、重度者でないと果たせぬ役割がある」「それが障害者が働く、生きるということ」であると、障害者のあるがままの姿を受け入れるよう、異化&統合へ向けて要請する主張にもつながる。 しかし、今ここにある社会で生きていく以上、その社会の依って立つ経済システムの影響なく生きることもできない。「できないこと」をそのままに認めても、「効率を気にせず働いてかせぎだせるはずはなく」「思いだけでは腹もふくれん。高い分配といっても生保を下廻るようではメシは食えん」という現実がある。それでも「できないこと」をそのままに認め続けることは、「効率の悪い者がはじきだされかねない事態」を生み出してしまう。であるがゆえに「できないこと」をそのままに認めるために、再分配の仕組みとして「十分かせげれないということで給与保証をするということ」が求められる。しかし、それは別の角度から見れば「特別な枠の中に囲い込まれることを是認することのように思われる(『季刊福祉労働』81号, 中西, 1998)」のである。 労働を、そして「できないこと」をめぐる議論が行き詰っているのか、原点回帰しているのか、現段階では明確な結論は出ない。ただ一つ言えることは、「できないこと」とその評価との接続が完全に恣意的なものであるという点だ。そして、「できないこと」の評価の恣意性を固定化してしまう要素として経済的困窮度やその緊迫性は厳然と残されている。つまり、共同連が求め続け、中央省庁から拒否され続けている「賃金保障」「保護雇用」の仕組みの有無こそが、「できないこと」の評価の恣意性を大きく左右する要因であるといえる。 はたして、労働の場で「賃金保障」「保護雇用」する仕組みを要請することは、「特別な枠の中に囲い込まれることを是認する」ことであり、すなわち「新しい労働の場」を福祉的就労の場と同一化させてしまうことなのであろうか。今後、隔離する福祉と保護する労働の間にある異同を、より明確にしていく必要があるだろう。 5. 引用文献 原田豊 1983 「依存から自立へ」『季刊福祉労働』20, 46-49. 星加良司 2007 『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』生活書院 石川准 2002 「ディスアビリティの削減、インペアメントの変換」『障害学の主張』明石書店 厚生労働省ホームページ 2007  社会福祉施設等調査 http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/23-20.html  最終アクセス日 2010年9月10日 清家一雄 1996 「自立生活運動2――介助を必要とする重度障害者の経済保障と就労」『総合リハビリテーション』242: 153-160. 倉本智明 1997 「未完の〈障害者文化〉――横塚晃一の思想と身体」『社会問題研究』47(1): 67-86. 木村俊彦 2001 往復書簡「共働事業所と就労援助を問う」」『共同連ニュース』84:11-12. 木村俊彦 1998 「学校卒業後の進路を地域の職場へ」『季刊福祉労働』81: 41-48. なまずの会 1987 「誰もが地域で生き合うために 創りだそう!ともに働き、ともにくらす場を! 全国障害者解放運動連絡会議」『全障連第12回全国交流大会基調・分科会基調・レポート集』騒々社 なまずの会 1987 「「共に生きる場」「働く場」づくりの現段階」『季刊福祉労働』 36, 135-139. 中西エツ子 1998 「娘は求職中」『季刊福祉労働』81, 64-71. 大久保純一 1997 「援助センターにおける就労援助」『職リハネットワーク』36: 16-19. 斎藤縣三 2001 「往復書簡「共働事業所と就労援助を問う」」『共同連ニュース』83:11-12. 斎藤縣三 2001 「往復書簡「共働事業所と就労援助を問う」」『共同連ニュース』86:10-11. 斉藤縣三 1987 「「共に行き働く場」の未来を」『季刊福祉労働』37: 55-64. 大会実行委員会 19941016 「第11回共同連全国大会報告」『共同連ニュース』45:3-4. 田口由美子 1984 「労働レポート――アド企画からの報告 全国障害者解放運動連絡会議」『全障連第9回富山交流大会基調・分科会基調・レポート集』 騒々社 田中耕一郎 2005 『障害者運動と価値形成―日英の比較から』現代書館 立岩真也 1995 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学』 藤原書店 立岩真也 1999 「自立」庄司洋子・木下康仁・竹川正吾・藤村正之 編 『福祉社会辞典』弘文堂 立岩真也 2001 「できない・と・はたらけない:障害者の労働と雇用の基本問題」『季刊社会保障』 37(3): 208-217. 横塚晃一 1972=2007 『母よ!殺すな』生活書院 山尾謙二 1989 「「自立=隔離」か「共生=共闘」か」『季刊福祉労働』44, 19-27. 全国障害者解放運動連絡会議 1976 『全障連結成大会報告集』長征社 筆者不明 1990 「労働省との話し合い」『共同連ニュース』18-2:5-14. 筆者不明 1991 「労働省との話し合い パート2」『共同連ニュース』23:3-10. 筆者不明 1994 「滋賀大会参加者からの感想」『共同連ニュース』45:5. 1 各地に散在する共働作業所で働く人々を各種保険の適用対象にするため 2 「トモニ基金」と呼ばれ、1990年3月から開始。500万までを無利子で貸し付けている。 3 「全国キャラバン」「マラソントーク」「全国大会」と呼ばれるイベントが毎年複数回開催されている。 4 2010年8月11日の斎藤縣三氏との会話にもとづく 5 例えば、1984年の第9回全障連大会報告集においては、それまで「労働分科会」としてしか存在しなかったものが「労働・作業所分科会」となり、1985年の第10回全障連大会報告集からは「労働分科会」と「作業所分科会」「共に生きる拠点づくりと全国ネットワーク」と項目が加えられている。 6 「大久保製壜闘争」や「堀田節子さんNHK就労闘争」が例として挙げられる 7 なまずの会は、共同連の傘下にある組織の一つである。 8 なまずの会によって開設された「新しい労働の場」の名称。パンを製造販売していた。 9 社会福祉施設等調査の結果に基づき作成。1999年までは身体障害者更生援護施設の数。2000年以後は身体障害者更生援護施設と身体障害者社会参加支援施設の数を加算した数を対象としている。2007年に入って減少しているのは、福祉的就労から一般就労への移行を進める障害者自立支援法の影響と考えられる。 10 他にも1999年雑誌「リハビリテーション」における「障害者の雇用と就労」特集が組まれるなど、1996年以後障害者の労働は医療-福祉分野の一大トピックとなっていく。