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 ハンセン病差別の中で生きて

杉野 桂子

障害学会第5回大会 於:熊本学園大学


◆要旨

 「スティグマの障害学」という聞きなれないテーマであるが、スティグマはもともとギリシャ語で「焼きごてでしるしをつける」など肉体上の「しるし」を意味し、これをつけることによって奴隷、犯罪人、謀叛人等に汚れた者、卑しむべき者という烙印を貼って世間に知らしめたものであった。ハンセン病患者は「身体上の欠陥」からこうした烙印を貼られ、社会的地位・権利、社会的存在・人間性をも否定されたと、大谷藤郎著「現代のスティグマ」にあった。
 ハンセン病は、一般に「らい病」として知られるが、らい菌の感染によって発病する伝染病で、1873年、ノルウェーのハンセン医師が菌を発見した。皮膚と末梢神経が侵され、顔や手足など、一番人の目につきやすい「外観」が変形することから、患者は古くから迫害を受けて、僻地や孤島などに隔離収容された。ハンセン病は感染力のきわめて弱い感染症であり、第二次大戦後、有効な治療薬「プロミン」の普及によって完治するようになり、1950年代には国際らい学会などが患者の隔離を否定する考えを表明した。
 しかし、わが国では1907年(明治40)に旧「らい予防法」が制定され、隔離政策をとってきた。1953年(昭和28)、全国の患者が一丸となって「旧らい予防法」の廃止運動を闘ったにもかかわらず、「らい予防法」に改正され、ようやく「らい予防法」が廃止されたのは1996年(平成8)のことである。
 菊池恵楓園は、1909年(明治42)に九州各県連合立の「九州らい療養所」として開設、来年は創立100年を迎える。隔離政策の下、人間の尊厳を踏みにじられてきた100年とも言える。

 母は昭和26年、強制的に入所させられた。前年の25年に全国のらい患者一斉調査があり、療養所の増床計画が打ち出され、26年、恵楓園も1000床拡張工事が竣工し、役場・保健所を中心に第2次無らい県運動といわれる入所勧奨が行われた。毎日のように来て入所を勧奨した。赤ん坊の弟がいたため、母は入所を拒み続けていた。
 26年7月31日、10歳の私を一人留守番に残し、父は生後半年の弟と3歳の妹を熊本市内の施設に預けるために母に付いて行ったが、妹は恵楓園に着いたその晩に疫痢を発症し三日目に死亡。妹は園内の火葬場で荼毘に付され、小さな骨壺に入って帰ってきた。
母は死ぬまで、自分が入所したばかりにと責め続けていた。 母の死後、母の「解剖願い書」を見せてもらったが、8月2日付になっていて驚いた。妹が死んだのは8月3日早朝で、母が、危篤の娘を前に自分で「解剖願い書」に署名し、拇印を押したとは思えない。(因みに私は「解剖願い書」のことは覚えがない)

 私は5年後の昭和31年、15歳の時に自発的に入所した。入所の手続きをする中で、家の宗教や家族構成を聞いた後、名前はどうするか、療養所の中では偽名を使って良いと言われ驚いた。母に相談し、まだ若いし、社会復帰した時にハンセン病療養所にいたことが判らないようにと偽名にして、52年間偽名で暮らしている。
(宗教の事を聞くのは、葬式のため) 手続きが済むと一時収容所という所に入れられ、2、3日後公民科という青年寮に配室された。当時はプロミン治療で回復し、社会復帰していく人もおり、寮では技能や教養講座が行われていた。
 半年後、ハンセン病患者のための唯一の高校に入学。岡山県立邑久高等学校新良田教室といって、昭和28年の「らい予防法改正闘争」の中で、患者にも高等教育を受けさせてほしいという運動が実って、昭和30年、岡山の長島愛生園の中に開校した。
 昭和32年、岡山に行く列車の旅は差別そのもの。貨物兼用の貸切り車両で、ホームに降りることも許されず、岡山駅に着くと改札口でなくホームの端から出され、両側に綱が張ってある所を通って愛生園のバスに乗ると、私たちが通った後を消毒した。
 希望に燃えて入学した学校でも、「らい予防法」が根強く息づいていた。四年間、一度も職員室に入った事はなく、教師は全員白い予防着姿であった。参考書など買ってきてもらって代金を払うと、そのお札を入口の消毒液に浸してガラス窓に貼ってあったり、修学旅行もなく、園の船も職員と患者用と別々にあり、職員船には絶対乗れなかった。
 昭和62年、新良田教室は閉校となり、この間約400人が在籍し、307人が卒業、7~8割の人が社会復帰した。クラスメートも29人が卒業、3分の2が復帰したが、ほとんどハンセン病患者だったこと、新良田教室を卒業したことを職場は勿論、連れ合いにも、子どもにも隠して生きているのが現実である。
 昭和36年に卒業して恵楓園に帰ったが、病弱で社会復帰は叶わず、自治会発行の「菊池野」編集部で作業することになった。

 昭和45年、杉野と結婚したが子どもは生めなかった。妊娠して受診すると、「来週、中絶手術をするのでご主人の同意書と印鑑をもらってきて下さい」と言われ、泣く泣く人工妊娠中絶を受けた。
 ハンセン病療養所には堕胎児の標本があった。標本が現存していた敬愛園や光明園などでは慰霊祭が営まれたが、恵楓園では現存していないため供養ができず、ワゼクトミーや堕胎・中絶の記録があればと自治会の正副会長らと共に園長にカルテの開示を要求したところ、私の中絶した日の記録と、その二週間後の記録に「優生手術をすすめるも本人希望せず」とあった。女として母親になることが出来ないことほど辛く悲しことはない。避妊手術を執拗に勧める医師に「いつかは生める時がくるかもしれない。女としてその希望を持って生きていきたい」と避妊手術だけは拒み通したのである。
 昭和51年に夫の母が、平成7年に私の父が亡くなったが、どちらの葬儀にも出席出来なかった。葬儀が済んで人の出入りが少なくなった時、夫は昭和17年に入所以来、34年ぶりに生家の敷居を跨いだが、今日までたった2回しか家の敷居を跨いでいない。
 「温泉宿泊拒否事件」の時、自治会には沢山の差別文書が送りつけられたが、この2回しか家の敷居を跨がなかったという発言を取り上げて、夫宛にも「家族にも受け入れられない者がサービス業の温泉に入れてくれとは間違っている。自分の家族の考えを直せ」と中傷の葉書がきた。入所者はこうした心ない差別文書やバッシングの電話攻撃には、宿泊拒否そのものよりも心を痛めた。
 平成13年、国賠訴訟判決で国の隔離政策の誤りが断罪された。長い隔離の人生被害に対し、多額と言えるかどうか分からないが、補償金を得たことで今、格差社会の矛先を入所者に向けるような逆差別が現れている。「ただ飯を食っていて大きなことを言うな」とか、「ここは国の施設、俺たちが税金を払っている。筍でも梅でも銀杏でも、国の物は税金を払っている俺たちの物だ」等々。
 また、施設見学に訪れた多くの人が、異口同音に、広くて緑が多くきれいな所だ、医局や売店やグランドもあり、自分もここに住みたいものだと言う。強制隔離の実態を、差別の歴史を知らないで、医療も生活も向上し、建物は建て変わり、全体的に明るくなった目の前の現象だけ見ると、そんな言葉になるのかも知れないが、塀で囲まれ、自由を奪われ
た空間は広いと言えるだろうか? 子や孫もいない暮らしが明るくて幸せだろうか?
 恵楓園の歴史資料館には、隔離の象徴であった壁や、本妙寺部落の強制撤去、黒髪校事件や藤本事件、あらゆる人権問題と闘ってきた80年の年表や、さまざまの生活用品が展示されている。ハンセン病療養所が病院というより生活の場であったこと、その生活が入ったら最後、死ぬまで続いたこと、それが日本のハンセン病政策そのものであったことを物語っている。
 ハンセン病療養所の将来がどうなるのか、重大な岐路に立たされているが、現在、恵楓園の入所者は419名、平均年齢78歳、在所期間約50年である。故郷の家にも帰られず、骨になっても帰られない1280人の物故者が園の納骨堂に眠っている。ハンセン病療養所に入った日から、故郷・家族を捨て、本名を名乗らずに偽名で暮らし、死んでも引き取られない遺骨。それらの根本にあるのはハンセン病に対する差別ではないだろうか。

 五年間、母の面会に通っていながら、自分が入所して初めて隔離のコンクリート塀と深い壕の存在を知った。電車やバスに乗って面会にきていたが、自分が患者として恵楓園の門をくぐった日から、電車やバスに乗れなくなった。何の後遺症もなく、昨日と今日の自分は変わらないのに、怖くなった。何故だろうか。ハンセン病に対する偏見差別が刷り込まされているから、ハンセン病という烙印を押された日から、どんなに軽症の者でも意識するのであろう。
 「砂の器」に見るような、石礫を投げられたり、直接電車を降ろされたり、食堂で拒否されたという経験はないが、デパートで顔を見ただけで後ずさりされたことがある。変形した顔や手足を見て戦いたのであろう。「スティグマの障害学」から考える時、ハンセン病の後遺症がなければ差別されることもなかったと言える。
 「らい予防法」には入所の項はあっても、退所の項はなく、外出するには医師の診断証明書や「外出許可証」が必要で、パチンコ屋で入店を断られ抗議すると、外出の許可をもらってきたかと言われた入所者もいる。「らい予防法」15条に「外出の制限」という項目があり、平成8年に廃止されるその日まで「外出許可証」を懐に入れていた者は多い。
 ハンセン病療養所で人間扱いされなかった患者。療養所の中に火葬場や納骨堂やお寺があり、監禁室や塀があり、外出許可証がないと園を出られない、入所時に持参した金は取り上げられて園券が渡される、囚人服のように一律に縞の着物が支給される。園長に懲戒検束権が与えられ、柿の実一つ取っても監禁室に入れられる等、戦前・戦中の過酷な時代を生きてきた先輩たちの、人権闘争の礎があって今日がある。
 平成8年予防法が廃止され、平成13年、国の強制隔離政策が断罪され、やっと人間回復のスタートラインに立った。これからハンセン病患者でなく一人の人間として皆と共に生きていきたい。


UP:20081004


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