>HOME

学会シンポジウム2「障害学とソーシャルワーク」

三島 亜紀子(東大阪大学)

障害学会第5回大会 於:熊本学園大学


◆要旨

1.立場

 

(1)障害学において

 障害学との出会いは、社会福祉研究室に在籍する大学院時代です。かれこれ10年ほどになります。研究会での議論は、社会福祉学領域ではあまりでてこないような話に大変魅力を感じました。
 これまで障害学の研究としては、主に翻訳・紹介をしてきたと認識しています。紹介では最近、障害平等研修(DET)というものを勉強しています。これは、障害当事者が「素人」に障害とは何か、を分かりやすく教える研修です。障害者差別禁止法があるイギリスでは、障害当事者のグループや個人がこれを仕事にしています。ちょっと気が早い話ですが、日本に障害者差別禁止法のようなものができた場合、事業になるか(金になったらいいなあ)と思い、そのあり方について紹介できたらと思ってやっています。
 このように研究面では、あまり障害学の研究に貢献していませんが、①障害学で学び、②将来社会福祉の現場で働くであろう学生に伝えることを使命と考えてきました。しかしながら最近では、少子化や、団塊の世代の一斉退職などで、福祉系の就学・就職を望む高校生が減ってきました。現場は人手不足で、自立生活センターなどでもいい人材を集めるのに苦労されていると聞きます。そこで、学生には積極的に③障害者福祉の現場の魅力を伝えることも大切なことだと考えるようになりました。以前、現状だけを伝えると、学生に逃げられた経験があります。

 

(2)社会福祉領域において

以前、福祉業界の大御所の先生に「福祉界にどっぷり浸かっている人からは反感、反発を買うかもしれないけど、醒めた目で福祉なるものの群生を見届けている人も必要だからね」と言われたことがありますが、そんな研究をしています。
修士の学生時代から、ソーシャルワークの成り立ちの経緯を追ってきました。昨年、『社会福祉学の<科学>性』をまとめました。これについては後ほどお話させていただきたいと思います。
次に教育についてですが、かれこれ社会福祉を教え始めて10年目になります。これまで障害学的な発想や「反発を買うかもしれない」ような議論も伝えようとしてきました。
 最初の職場は、東北の短期大学で社会福祉士と保育士の養成をしていました。そして現在の東大阪大学では、保育士・幼稚園教諭・小学校教諭の養成を行っています。障害学的な講義や演習は、これら養成課程の普通の課目の一部としてやっています。「社会福祉援助技術論」や「社会福祉援助技術演習」、「社会福祉論」などの授業です。
 そうすると学生は、障害学的な授業を「社会福祉援助技術論」や「社会福祉論」と思います。同僚なども「へ~、最近の新しい潮流なんですか。がんばってください」といった反応がほとんどです。本来障害学がもっているであろうトゲの部分(専門家にとってのトゲ)が理解されているのか、されていないのか分かりません。
 歓迎される場面さえありました。大学で特別支援学校教員の養成もしようという計画がありました。そのとき、日本では珍しい「障害学」の科目を入れて、大学の独自性にしよう、なんていう話も出たことさえあります。残念ながら計画だけになってしまいましたが、それは別の理由によるものでした。
 とはいえ、いまだ過去の遺物的な壁にであったことがあります。日本社会事業学校連盟の東北ブロック事務局長時代、障害のある当事者をシンポジウムにお招きして、お話をお聞きするという企画をしたことがあります。この企画は「画期的」と称されました。だいたい、そういう風に言われること自体が問題とは思いましたが、さらに、「障害者招いたらうるさいだろう」という他大学の教員の反対意見がありました。その反対意見に反論した記憶はないですが、たぶん聞き流したため企画は実現しました。
 このように、障害学的な発想を社会福祉領域に伝えることは、「闘い」ではなく「すんなり」といった様相だったのが主観的な感想です。というのも、私が社会福祉領域に顔を出しはじめたのは1990年代後半で、すでに下地があったといえるのかもしれません。手ごたえがない、ともいえますし、誤解もあると思います。この誤解については、課題の中でお話したいと思いますが、まず、ソーシャルワークの現状認識についてお話したいと思います。

2.ソーシャルワークの現状認識

(1)社会福祉領域の「ポストモダニズム」=反省的学問理論について

 きわめて社会福祉学の内輪の話をさせていただきますが、近年では「ポストモダニズム」のソーシャルワーク理論が少し議論になりました。代表的な「ポストモダニズム」のソーシャルワーク理論として、「エンパワメント」「ストレングス視点」「物語理論」などがあげられます。
 例えば、エンパワーメントの場合、「エンパワーメントの社会福祉実践は、従来の専門家と「クライエント」の間にあった関係とは異なり、対等な関係のなかでおこなわれるとされる。ソーシャルワーカーはこのとき、クライエントを診断したうえで処遇方法を検討するような旧来の「医学モデル」を捨てなくてはならない。ソーシャルワーカーは、「利用者(ユーザー)(旧クライエント)」が本来もっている「強さ」を引き出し、彼/彼女ら自身が主体的に問題解決に取り組むことができるように、協働作業をおこなう存在となった」(三島[2007])。

 私はこうした「ポストモダニズム」のソーシャルワーク理論を「反省的学問理論」と言い換えています。というのも、ソーシャルワーク領域以外で流通している「ポストモダン」概念とのズレがあると考えたからです。本の中では、「閾値がある」という言い方をしていますが、これは、専門家の側の「堪忍袋の緒は切れるようにできている」ということです。

 アン・ハートマンという人は、こんなことを言っています。

「数ある真実のうちの一つにすぎないことを認識」しながら、過去に犯した過ちを再び繰り返すことなく、慎重に適用されなければならないと説く。特に、「反社会的と定義される行為」がある場合には、「阻止、もしくは防止するように介入」しなければならないと論じた(Hartman[1993:366])。

 つまり、ソーシャルワーカーはある一定の範囲内で、対等な立場に立ち、「ポストモダニズム」のソーシャルワーク理論や援助観にしたがって援助するということです。この限界を超えると、介入が奨励され、ソーシャルワーカーが優位に立つことになります。これは、リスクを回避するための閾値とも言えますが、それが過去に批判されたような恣意的な権力濫用を避けるためにも、次に述べるデータに基づく実践が推奨されています。

 

(2)現在の専門家の立ち位置について――障害学的が提唱する、望ましい姿とは?

このように、反省的学問理論により、専門家の立ち位置は、より利用者に近づいたように思えるが、そうではないことがわかります。このことを、以前に「専門家は、一方の手に反省的学問理論、もう一方の手にデータに基づく権限をもって実践に臨んでいる」(三島〔2005〕)と書きました。絵で書くとこんな風です。右手に反省的学問理論、そして左手に権限があって、それを支えているのがデータベース。
 最近、「根拠に基づくソーシャルワーク(evidence based social work: EBSW)」への関心の高まりがあります。日本でも2006年の社会福祉実践理論学会第23回大会あたりから、 「エビデンス」が重要な鍵概念の一つになりました(社会福祉実践理論研究2007)。

 

3.ソーシャルワークの課題

(1)今の専門家に対してどのように向かい合うか?

 では障害学として、こうした傾向に対してどのような対応をとったらいいのでしょうか。

まず、Michael Oliver & Bob Sapey  1992  Social Work with Disabled people( 2nd edn). Macmillan.などを書いているボブ・サペイの見解を少し紹介したいと思います。(Sapey, B. (2004) Practice for What? The Use of Evidence in Social Work with Disabled People, in D. Smith (ed.) Evidence-based Practice and Social Work, London, Jessica Kingsley.)彼はまず、オリバーが調査を批判したことをあげています。オリバーによると、従来の調査は、個人‐悲劇モデルを支えるものです。そして社会モデルに基づいた、障害者がコントロール権をもつ正しい調査をするべきと主張しました。
 こうしたオリバーの考えに基づき、サペイは、エビデンスも、社会モデルに基づいたものであれば良しとしました。社会モデルに基づいていれば健常者が調査に参加してもいいが、できれば当事者の参加が望ましいとし、ソーシャルワーカーによるEBSWに対して懐疑的でもありました。というのも、専門家や政府がエビデンスを重視するときには、自立生活を支えることより資源の管理に関心があると考えられたからです。そして、そのような支出を抑制する役割を担うようなEBSWではなく、「解放の障害調査」として次のような調査が望ましいとしました。たとえば、法律の不備を証明する調査、当事者がトレーナーとして行動することの重要性を裏付ける調査、ダイレクトペイメントを自分でマネジメントしている人と社会サービス部に依存している人とを比較する調査などです。

 

(2)言葉を細かく見る

最初に申し上げたように、障害学的な主張は軽く流されているような気がしてなりません。なかでも、同じ言葉でも障害学とソーシャルワークとでは意味が違うために議論がかみ合わず、流されてしまうことがあるように思われます。

たとえば、「社会資源」という言葉があります。この言葉は、たとえばセルフケアマネジメントのときに使われたりします。ですが、現在の社会福祉領域では、社会資源として親が含まれています(実は、ソーシャルワークにおいて親が含まれない時期もありました。時期的には、「福祉国家の曲がり角」と言われた時期に親までが含まれるようになりました)。それは、たとえば自立生活運動のあり方とは違ったものということができます。

他にも、ニーズ(必要、ニード)なども同じような間違いが起こる危険性があります。といいますのも、ソーシャルワークでは、利用者が感じる「フェルト・ニーズ(felt needs)」と専門家などが共有する「ノーマティヴ・ニーズ」があり、「面接を通じた信頼関係の構築」により、「真のニーズ」に近づくものというような教育がなされているからです。

こうした、同じ言葉を共有するからこそ生まれる齟齬というものに注意をしていく必要があると思いますし、そこから対話が始まるように思います。


UP:20081004


>HOME