>HOME

障害者差別禁止法制定に向けて―障害者活動と障害学会の目標と役割―

桐原 尚之
障害学会第5回大会 於:熊本学園大学

◆要旨

 Ⅰ 障害学と障害者活動

1 日本の障害者活動から見た障害学

 日本の障害者活動から見た障害学(障害学会を含む)はどのようなものだろう。障害者団体によっては、障害学や障害学会を嫌う団体もある。その理由ははっきりとはしていないが、特に「障害学会は意味がない」との意見を耳にする。

2 障害学から見た障害者活動

障害学から見た障害者活動はどうだろう。会員個人との結びつきはあるものの、組織的には関係が薄い。また、会員の殆どが、障害者活動に対して研究のために付き合うことはあっても、研究を通じた障害者活動への参加には至っていない印象を受ける。

3 障害学と障害者活動の関係を考える意味

このことについては、ずいぶん前から議論があった。ここにきて、この話しをだすのには相当の理由がある。現在、障害者活動に一種の課題が見えたように思う。障害者権利法制制定のための活動があるが、障害とはなにか、差別とはなにか、といったことの理論形成ができていないのに、法成立を目的とした運動をしてしまっている。これにはやや問題がある。その解消には、やはり研究が必要不可欠である。情報共有のためのメディア政策学の観点や、西洋医学との問題を考える医療社会学、障害者視点の障害学と、実にさまざまな切り口での研究が求められている。

Ⅱ 学問とは?活動とは?障害学の学問倫理について

1 学問も活動も結局は社会的役割

日本における障害学は、学問としてのロールの強さが特徴であると考えられる。ある意味では、アメリカ障害学会も似た性質を持っている。これと異なりイギリス障害学は、活動と密接に結びつき、障害者活動のツールとして機能している面がある。

本来、学問や研究は、平たく言えば「社会をよくするため」にある。障害学も実情を変える力として作用しなければならない。しかし障害学会は、様々な学会のなかの一つ、あるいは当事者学のひとつとしての役割に近い立場で存在している。

2 障害者活動の役割と障害学会の役割、そして全体の目標

社会的役割のレヴェルで考えたときに、学問や研究としてのカテゴリを強調することは無意味である。まず、障害者活動も障害学も、集団的な障害者としての目的を持つ必要がある。目的は、理念のような曖昧なものではなく、もう少しクリアに「障害者の権利法制の制定」などのほうがよい。これを実現するにあたって、いくつかの方法や手段を選ぶことになるだろう。Aグループは政治家の味方を作るかもしれない、Bグループは行政に行って交渉するかもしれない、Cグループは情報が少ない孤立した障害者に情報提供するかもしれない。そういった中で、障害学会が、集団的な障害者として「理論づけ・裏づけ」などのために存在する必要がある。

3 手法や方法ではなく目的や目標

 もし、障害者団体が、障害者活動をすることそのものが目的だとしたら、全共闘のゲバルト党派のような活動イデオロギーに陥るだろう。だとしたら、障害学会が障害学を目的にしているなら、学問イデオロギーに陥っているようなものである。全体的に見れば、相互に方法や手段にこだわりすぎて、目的を見失っている部分が大きいように見える。学と活動の、根本を分けて考えるのではく、役割として分けて考えていく必要がある。

Ⅲ 今後の役割分担を目指した実践として

1 モデルケースとしての運動

青森県の権利法制制定運動は、研究の要素を含みながら進めている。また、実情の把握のため、一人一人に対する聞き取り調査を念入りに行っている。また、都道府県間の交流を熱心に行ってきた。こういったことが、求められていることであると考えている。

2 差別とはなにか

 障害の社会モデルを採用した権利法制の、障害の定義を社会的なものとする。すると、障害に基づく差別をどのように考えるのかが、考えなければならない。ADAはインペアメントを持つ者が障害者と定義づけられている。しかし、障害者のインペアメントを第一に視点をあてた法律が、はたして差別を解消できるのか。

 差別を禁止する法律である必要性よりも、障害の緩和を目的とする法律と位置づけることも考えられる。それとも、インペアメントを持つものに対する差別のひとつが障害なのか。ここについては、未だに答えは出ていない。

 ただ、障害者の体験から、なにかを推察することができるだろう。下に障害の区分を定義づける。そして、これら区分別にマトリックス分析をした。

① 偏見

偏見とは、障害者一人一人を人間として理解するのではなく、障害者というカテゴリにいる人間はこのような人間であると、ステレオタイプに決め付ける行為である。あらゆる障害(disability)の根本は「偏見」にあると考える。

② スケープゴート

スケープゴートとは、健常者にとって住みよい社会にするため、健常者にとって都合の悪いものを、障害者の問題にする行為である。責任の所在を健常者ではなく障害者に摩り替えて、障害者だけを悪者にしてしまう。これによって、障害者は無実でも、迷惑な存在として社会的に位置づけられてしまう。

③ 排除

排除とは、障害者に非人間的取り扱いをすることである。多くの人が暮らす一般的な社会から排除し、レイヴェリングされた特別な者が生きる社会に移住させられ、常に負の様相を強いることなどがそれにあたる。

また、アイデンティティを保持する権利を剥奪する行為も障害(disability)である。アイデンティティは「所属」「能力」「関係」から成立といわれている。これらを特定の理由で失うことは、心理的に大きな影響を与える。

④ 能力の低下

障害(disability)は排除を含むことは前述で説明した。排除は、障害者の社会経験の場や技能習得の場からも排除してしまう。これによって、一定以上の能力を習得できず、結果的に能力が低くなってしまう。

教育の場から排除されれば、教育による一定以上の能力(skill)を習得できないし、労働の場から排除されれば、労働経験が不足するため、一定以上の能力(skill)を習得できない。これらも、インペアメントとして理解するのではなく、障害(disability)として理解する必要がある。

⑤ 物理的差別

 情報や段差といった障害者のインペアメントに対して発生する、差別を総称して、とりあえず物理的差別とする。これらは、社会に参加するにあたって大きな障壁となる。

筆記試験で採用の可否を決める職場なら、盲人はその時点で除外される。階段しかないビルの5階が会場なら、車椅子の人はその時点で除外となる。

⑥ 人格的差別

人格的差別とは、人としての人格権を軽んじて、制度的若しくは常識化された考えで、障害者に自由や権利を認めないことである。

障害者の欠格条項や、法律行為を無効化する責任無能力や心神喪失などが人格的差別に当たる。また、パターナリズムなどが常識かされた人格的差別である。

3 差別を解消するには

平たく考えれば、これら差別の対になる概念が差別解消となる。こんなことを言いたくはないが、一応単純に整理をするために、ある種の指標として並べたと思って欲しい。

 よって、偏見は理解、スケープゴートは個人の尊重、排除は統合、能力低下は機会均等、物理的差別はアクセシビリティ、人格的差別は自由と平等とした。

 障害者の意見を聞き取りした資料を基に、これらをマトリックスに並べてみる。すると、体験から問題を考えるひとつの方法としてこれらを使うことができる。ちなみに、私たちはこのマトリックスを『障害程度区分』と呼んでいる。

4 障害の所在

 障害は住む地域や性別、年齢によって実にさまざまなものである。また、複合的に差別を受ける可能性を持っている。これらを障害に基づく差別かどうかを、権利法制が判断すべきではないと思う。とにかく差別があったらなくす、こういった姿勢が大切となる。

5 人権と権利

 日本国憲法の基本的人権を、「平等権」「社会権」「自由権」「幸福追求権」と分けて解することができる。これら、人権の基礎以外にも、債権、物権のような私権から親権や代表権のような身分権も権利として考える。

 そのときに、障害者の権利が「平等権」や「自由権」から考えられることが少ない。また、差別禁止法が債権や物権のような権利を射程に入れようとも思わない。障害者団体として法を研究する必要があるだろう。新たな学問、権利法学が必要と思われる。

Ⅳ 結論

 しかしながら、この権利法制の研究は不十分である。もっと言えば、依然として、良質な法案や概念の提案はされていない状況にあるのだ。この研究結果が不十分であるなら、やはり充分にしていく必要がある。

充分にするにあたって、障害学と障害者活動の協力が必要不可欠であり、障害学会として、障害者活動との繋がりを考えていく、新たな委員会をつくる必要がある。

参考文献

◆ 当事者がつくる障害者差別禁止法 保護から権利へ ― 現代書館

◆ 障害学を語る ― エンパワメント研究所

◆ 掛谷 英紀, 2005,『学問とは何か:専門家・メディア・科学技術の倫理』,大学教育出版

◆ 杉野 昭博, 2007,『障害学―理論形成と射程』東京大学出版会

◆ 玉村 雅敏, 2005,「行政マーケティングの時代」第一法規

調査資料

◆ 平成18年度内閣府障害者施策総合調査

◆ 平成19年度内閣府障害者施策総合調査

◆ 精神障害者フォーラム 差別禁止法制定のための第一次体験募集


UP:20081004


>HOME