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合理的配慮とポジティブ・アクション——差別禁止アプローチの有効性と限界

○飯野由里子(東京大学)星加良司(東京大学)

障害学会第5回大会 於:熊本学園大学


◆要旨

 すべての個人は「人」として等しく扱われるべきである。この命題自体がまったくナンセンスだと主張する人はあまりいないだろう。しかし、わたしたちは同時に、すべての個人が「人」として同じ状況にあるわけではないということも知っている。むしろ、現実に生きるわたしたちは、さまざまな理由から、社会的に不平等な条件の下で人生を出発させ、その中で生活し続ける。したがって、たとえ形式的には等しい取り扱いを受けているのだとしても、個々人の置かれた具体的状況が考慮されないままでは、実質的な「機会の平等」が保障されていることにはならない。

 では、多様な状況に置かれた人たちの「機会の平等」を保障していくことは、いかにして可能だろうか? 本ポスター報告の目的は、主に就労(雇用)の場面を念頭に置きながら、近年、ディスアビリティの領域で注目されている「合理的配慮」と、ジェンダー領域で関心が寄せられている「ポジティブ・アクション」が、「機会の平等」という目標をそれぞれどのような手法で達成しようとしているのかを明らかにすることにある。

 本報告では、まず、「機会の平等」をlevel the playing field(競技の場を均一にする)の意味として捉え、当該目標を達成するためのアプローチを大きく、①個人間の「フェア」な競争条件の確保を目的としたものと②集団間の「数的な」不均衡の是正を目的としたものに分節化した。さらに、それら目的を達成するための手段を、(a)直接差別の禁止、(b)間接差別の禁止、(c)特別措置の三つに区分し、「合理的配慮」と「ポジティブ・アクション」が、とりわけ(b)や(c)との関係においてどう位置づけられるのかを検討した結果、以下のような考察を得た。

1) まず、(b)のうち①のアプローチは、当該職務と関連性のない基準を除去していくことに重点を置いている。「合理的配慮」によって提供される追加的な働きかけ、たとえば「手話通訳者の配置」などは、この目的を達成するために有効な策であり、この意味で、「合理的配慮」は上記区分において、 (b)−①アプローチとの関連が深いといえる。

2)他方、(b)のうち②のアプローチは、ある特定の集団に対して著しい不利益をもたらすような基準を除去していくことに重点を置いている。ジェンダー領域ではこれまで、①同様、②の目的も重視されてきた。しかし、②の目的において対象とされている基準すべてを(b)という手段によって解決していくべきかについては、依然論争的である。

3)というのも、②の目的は、(b)だけではなく(c)という手段によっても達成可能だからである。事実、ジェンダー領域では、具体的な数値目標を設定する「タイム・ゴール方式」や、女性であることをプラスの一要素として評価する「プラス要素方式」といった「ポジティブ・アクション」を採用することで、②の目的の達成が目指されている。

4)このように、「ポジティブ・アクション」は上記区分において、(c)−②アプローチとの関連が深い。だが、「ポジティブ・アクション」には、「新たな職域を目指す人に対して知識やスキルの習得を支援する」とか「長期勤続のための生活設計を後押しする」など、特定のニーズを有する人たちへの「支援策」も含まれており、少なくとも現状では、①と②両方の目的を含む手法だといえる。

5)さて、こうした「支援策」は、「合理的配慮」によっても、たとえば「勤務時間の調整」といった形で行われている。しかし、「ポジティブ・アクション」が①と②両方の目的を視野に入れているのに対し、「合理的配慮」は特定の個人が特定の職場において特定の職務を遂行していくために必要な「支援」の提供にほぼ限定されている。したがって、たとえ「合理的配慮」のもとで(c)という手段が採られたとしても、それはあくまでも①の目的を達成する範囲のものであり、②の目的を含むものではないといえる。

 以上の考察からも分かるように、「合理的配慮」がより「個人」にフォーカスしたアプローチであるのに対して、「ポジティブ・アクション」はより「集団」にフォーカスしたアプローチである。現在、ディスアビリティ領域では、多種・多様な障害の程度や状態にきめ細かな対応が可能であるという理由もあり、前者のアプローチに注目が集まっている。だが、実質的な「機会の平等」を保障していくためには、前者のアプローチだけでは不十分であり、後者のアプローチをも視野に入れた議論が不可欠である。ただ、ジェンダー領域とは異なり、ディスアビリティ領域では、「機会の平等」が損なわれている状態を推定させる基準として、集団間の「数的な」不均衡の存在を持ち出しにくいという側面があり、今後、同様のレトリックを成立させていくのであれば、「機会の平等」概念のラディカルな改変が必要になってくると思われる。

UP:20081004


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