倫理学は障害学に届きうるのか−リベラリズムとディスアビリティ はじめに  障害者運動から生み出されてきた障害学においては、障害者の当事者性が理論的な前提となっている。この前提は日本の障害学研究にとってもひろく受け入れられていると思われる。だが、道徳的善悪の哲学的分析を使命とする倫理学、とりわけ分析的伝統に立脚する現代の倫理学にとって障害者の当事者性あるいは主体性はひとつの躓きの石であり続けてきた。たとえばロールズに代表されるリベラリズムは障害者をその理論的枠組みから排除してきたかせいぜい二次的な役割のみを押しつけてきたと批判されている。  現代リベラリズムの有力な理論装置は社会契約論である。大づかみにいってしまえば、社会契約論のストーリーでは自由で平等な主体が、目的合理的に各自の利益を追求しながら、相互に利益となる社会原理を全員一致で選択する。契約とは相互利益を獲得するための取引になぞらえられる。このストーリーには障害者に割り振られる役割はありそうもない。障害者の典型的な描写は移動にさいして車椅子を必要とする人々である。社会契約論の枠組みでは、障害者が必要とする車椅子購入代金の分配を簡単には正当化できない。というのも、集団としてみた場合、障害者が必要とする追加費用(車椅子代)にみあうだけの生産性を彼らはもたないし、それゆえ社会全体への貢献も少ないと想定されているからである。障害者の政治参加の可能性はないがしろにされ、障害者の観点は社会契約論の根本原理選択や正義の手続きにとって重要とはみなされてこなかった。  本報告では、このリベラリズムが障害者を理論的に排除してきたという「通説」を検討する。この趣旨のロールズ批判については、日本ではセンのそれがすでに紹介されている。そこで、リベラリズム陣営内部で戦わされた論戦を、ロールズとセンの応酬を振り返りながら、障害者は正義にかなった社会の主体だともっとも積極的に主張するヌスバウムの議論を参照していきたい。 1  ロールズは大著『正義論』でもっとも不遇な人に手厚い財の分配を命じる「格差原理」を、正義の原理の一つに据えている。この平等に分配されるとされる「社会的基本財」(自由と機会、所得と富など)に対して同じリベラリズム陣営で手厳しく批判したのがセンである。センは「何の平等か?」において、格差原理が身体障害者に対して適切な配分を提供できないと論じている。格差原理では、社会的基本財が配分されるだけなので、財から得られる満足の面でも健常者に劣っている身体障害者に対する配慮を備えていないというのである。たとえば、車椅子が必要な身体障害者を考えてみる。格差原理は、身体障害者が障害を負っているからといって、特別な分配を与えてくれない。なぜなら、身体障害者には誰にでも等しく分け与えられるべき社会的基本財ならば、想定上すでに十分所有しているからである。ロールズに欠落しているのは、分配された財でもって、各人が何を実現できるか、個々人によって違いのあるニーズは何かという観点である。  ロールズは一度は障害者の問題を「難しい事例」として自らの理論的枠組では除外されかねないと認めざるをえなかった。しかし、遺稿となった『公正としての正義 再説』では、社会的基本財の平等はセンの批判を免れていると再反論を試みている。  ロールズによれば、公正としての正義で前提とされるのは自由で平等な市民である。この市民は正義感覚への能力と善の構想へ能力という二つの能力を備えており、全生涯にわたって社会的協働に携わる。この市民の最低限不可欠なニーズは十分に似通っているので、基本財をニーズの指数にしても取りこぼしはない。しかもロールズによれば、基本財はセンが批判する以上に柔軟な指数であって、病気や事故が引き起こすニーズの違いに対応できる。というのも、市民は全生涯を通じて社会的に協働すると想定されているので、一定期間社会での役割を果たせないときには適切な補償をうけるべく正義の原理が命じるからである。したがって、基本財を平等の指数とするならば、身体障害者に適切な配慮をしていないとの批判は的外れだというのである。  このようなロールズの反論はどこまで妥当であろうか。社会的基本材のリストに障害者への配慮が正面から組み込まれたことは、一定の改善であるかもしれない。しかしながら、ロールズとセンとの論争において障害者は常に財の配分を受けるだけの受動的な立場に追いやられてはいないだろうか。論争の舞台では、配分原理を選択する主体としての地位が障害者からあらかじめ剥奪されてはいないだろうか。障害者は財の分配を待つだけなのか。だとすると、財の量がある事情で激減したとき、分配の限界事例へと障害者が押し込まれる危険性はないのか。あたかも自己意識あるいは何らかの利益の有無によって中絶の許容可能性が論じられるとき、障害新生児がひとつの限界事例となるように。それは障害者に政治レヴェルである種のスティグマを押すこととどれほど異なっているだろうか。問われるべきなのは、配分される財の指標だけではなく、障害者の政治的主体性にあるのだと思われる。 2  前節の懸念を主題的に論じているのはセンの盟友ヌスバウムである。ヌスバウムは『正義のフロンティア』において、ロールズは依然として障害を偶然で例外的な事象としてしか把握していないと指摘する。先のロールズのセンへの応答には、障害者の主体性という観点からは、ロールズが障害を負う時期が偶然にあるだけの障害を持たない人々の生と一生涯にわたるインペアメントをもつ人々の生との間に連続性を認めていない点をヌスバウムは論難している。つまり、ロールズが障害者への配慮を基本財でカバーしようとしても、その目的は障害によって被る「不運」を何らかの形で補償する点にあるのであって、結局ロールズは、深刻な障害をもつために社会的協働に貢献しえない人々を「極端なケース」として棚上げしているのである。正義にかなう社会構築に参加する能力、たとえば合理的推論能力や道徳的能力を欠くとされる人間は、『正義論』以来一貫して政治的人格概念の外延から排除されている。  ヌスバウムはロールズひいてはリベラリズムが前提としてきた政治的人格論の歪みを告発する。本稿の関心から重要なのは、いわゆる健常者のノーマルな生と障害者の生とを完全に断絶させているロールズ人格論の歪みである。ヌスバウムによれば、私たちは幼子のときには保護者から世話をされ、老いては家族や社会福祉制度の援助を頼みに生きている。障害者を恒常的なケアを必要とする人々だと規定するのがたとえ妥当だとしても、障害と健常の区別はそれほど自明ではない。したがって、ロールズが障害者を特別なケースに押し込んでまで守り抜こうとした人格像はすでにリアリティを著しく欠いている。一般的に述べ直すならば、合理的推論能力と自己利益増大を指標とする独立した個人といった、自己中心的な人格像はまともな社会構想と両立しがたい。  ヌスバウムはリベラリズムが前提としてきた(カント的な)人格に代えて、他者の善を自らの善として共有するアリストテレス由来の社会的動物としての人格こそがリベラリズムにふさわしいと主張する。それによれば、人間存在は他者に依存しさまざまなものを必要とするつかの間の動物存在であって、ロールズが期待する合理性や独立した自由な主体からなる社会的協働もまた成長し成熟し衰えていく。そうであれば、人格の公的な理解もまた他者との依存関係を繰り入れたものとなる。他者への共感に裏打ちされて他者の善に強くコミットする人格像こそが求められているのであって、基礎的な政治原理はこの人格理解から生い立つのである。他者に依存して生きる生が人間に本質的であるとすれば、障害者の生がそこから排除されねばならない理由は存在しないはずである。かくてヌスバウムの構想においては、障害者はリベラルな社会の正統な主人公たりうるのである。 3   ヌスバウムは障害者のニーズも健常者のニーズも同等に重要であり、かれらのニーズに応えることは政治的にも道徳的にも価値があるとされる正義原理を提出する。それが「中心的ケイパビリティ」である。センのケイパビリティ・アプローチはQOLの比較研究に焦点を当てているが、ヌスバウムは核となる人間のエンタイトルメント(権原)を説明する哲学的下支えを与えることが目的である。このエンタイトルメントは人間の尊厳を尊重するミニマムであって、あらゆる国家の政府が尊重し履行しなくてはならない。  ヌスバウムは10のケイパビリティ・リストを挙げている。このリストは人間にとって本質的であって、というのもこれらのケイパビリティをすべて(人間にふさわしい)閾値以上の行使することこそが人間に固有の存在様式だからである。中心的なケイパビリティは人間が普遍的な機能を満たすのに不可欠でありしたがって「真に人間的な」存在として生きるために本質的だからである。それゆえ、この図式の下で国家は人々にケイパビリティによって可能となる基礎的な機能レヴェルに至るに足るまでリソースを供給する義務を課せられている。  リストすべてを紹介する余裕はないけれども、先のロールズとセンの応酬で具体例となった身体障害者の車椅子購入費用負担を取り上げよう。ヌスバウムのケイパビリティ・リストには「身体的健全さ(Bodily Integrity)」が載っており、その内容には「場所から場所へと自由に移動すること」が真っ先に含まれている。ケイパビリティとは人間の尊厳ある生を可能にする最低限の条件であった。それゆえ身体障害者が自由に移動するために車椅子が必要不可欠であるとするならば、車椅子を供給する義務をまともな社会は負っていることになる。車椅子購入費用を社会的に負担しないとすれば、それは障害者に人間としての尊厳の否認に直結してしまう。ロールズの格差原理でないがしろにされていた障害者の多様なニーズを、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチはしっかりとくみ上げていると思われる。  とはいえ問われるべきなのは財の配分がいかにして正当化されているかである。リベラルな社会では根本的な政治原理を補完するべつの原理、たとえば人類愛によって車椅子購入費用を支出すべきとの指令が導かれるかもしれない。あるいはロールズのように、社会原理が選択された後の現実の立法過程の段階にいたってから考慮すべき支出項目にとどめておけば十分かもしれない。なるほどたしかに精神的・身体的障害を理由に人は差別され不利益を被ってはならないという平等主義的な直観はリベラリズムに共通であろう。だが、だからといって必要額の財源が確保されるなら正当化根拠などことさらに詮索しなくてもよいとはいえない。というのも、問いの焦点は障害者の主体性にこそ絞られているからである。  障害者の場合は、ある人は人間に典型的な閾値レヴェルで計測された同等のケイパビリティを得るために健常者以上に多くのリソースを必要とするかもしれない。ヌスバウムの理論によれば、その場合には差額のリソースを配分するするのがすべての人にとっての善(財)を獲得するために求められるだろう。結果的に障害者に手厚い財の配分が帰結するだろうが、それは障害者が特権的な財の受益者であるからではない。なんらかの恩恵を期待する権利が障害者に与えられてるからでもない。ヌスバウムの政治的人格論を想起しよう。障害者が自由に移動できることは、社会の他のメンバーにとっても喜びであり善なのである。障害者の尊厳は、障害者だけでなく社会のメンバーすべてにとって直接目指されるべき政治目的である。もしケイパビリティ・アプローチが妥当であるならば、障害者のケイパビリティを引き上げようとするニーズは、人間存在が本来有している多様なニーズの一例として直ちに正当化される。もし障害者のニーズを満たすためのさらなる剤の配分を「恩恵」と呼ぶとすれば、それは正義にかなった社会を構成する人間すべてにとっての恩恵を意味しなくてはならない。  またケイパビリティ・アプローチが貫徹された社会では、障害者は自分以外の誰かが選択した政治原理に、選択がすでに完了してから受け入れるだけの受動的存在者ではありえない。ケイパビリティ・リストに政治的環境のコントロールが入っている事実が示すように、障害者の政治参加は最初から是認されている。おそらく政治参加といっても、自らの意見を表明するのが困難なインペアメントをもつ人々は、適切なケアと援助者を必要とするだろう。だとすれば、そのための費用負担を含めたしかるべき措置を社会的に講じなくてはならない。それは車椅子購入費用のための財のさらなる配分がケイパビリティ・アプローチによって正当化されたのとまったく同じことである。 おわりに  本報告の目的は、倫理学が障害者の当事者性・主体性をいかにして正当に論じうるかを、リベラリズム政治哲学を題材に検証することにあった。この観点に照らすと、スバウムのケイパビリティ・アプローチはいかに評価できるだろうか。  ヌスバウムの戦略は、人間はみな多かれ少なかれ障害者であるとみなす一種の人間本性論だと特徴付けられる。他者への依存を人間本来の在り方とする政治的人格論は、インペアメントを人間という種につきものの特性へと還元する傾向を備えている。このように障害を人間特性に普遍化する戦略は、たしかに障害者の政治的主体性を十全に確立しているように思われる。障害の社会モデルと政治権利獲得路線との親和性も強い。ケイパビリティ・アプローチは障害学の前提に到達しうる倫理学理論だとさしあたりは評価できるだろう。  だがその普遍性のゆえにヌスバウムは少なくない代償を払っている。約言するならば、障害概念の解消と新たな線引きである。まず前者からみておく。ヌスバウムによれば、人間はみな障害者なのであった。もしこの人間概念が正しいのならば、せっかく確保された障害者の主体性はただちに意義を喪失しかねない。ケイパビリティ・アプローチでは、障害者を障害者として同定する必要性がきわめて希薄になるからである。人間本性の定義を改変して、これまでリベラリズムが排除してきた障害者を包摂しきったのだから、たとえば障害者運動が担ってきた課題はすべて「障害者の」ではなく「人間一般の」それへと姿を変えていくだろう。  新たな線引きというのは、ヌスバウムの新たな人間概念からはやはりこぼれ落ちてしまう人々がいるということである。先に確認したように、もし相対的により多くの配分が障害者をケイパビリティの平均的なベースラインへと引き上げうるならば、ケイパビリティ・アプローチは障害者へのより多くのリソース配分を正当化する。この論理の裏を返すと、いかにしても人間としてのケイパビリティの閾値に手が届かないものは、もはや人間とはみなされないことになる。じっさい、ヌスバウムは遷延性意識障害の人間は「人間の生を送ることはできない」と判断している。  以上二点の「弱点」を抱えたヌスバウムの理論は障害学にとってどれほどの魅力があるだろうか。やはりリベラリズムも倫理学も役に立たないと見切られてしまうのだろうか。そうではあるまい。たとえヌスバウムの「弱点」は克服すべきだとしても、それは同時に障害学にとっても乗り越えていかねばならない壁であると思われる。というよりもむしろ、倫理学と障害学がともに立ち向かっていくべき課題にヌスバウムもまた直面しているのだろう。 文献表(邦訳のないもののみ原書タイトルを付す) ロールズ(1971年)矢島鈞次監訳『正義論』(紀伊国屋書店、1979年)。 ────(1996年)『政治的リベラリズム』(Political Liberalism, Columbia U. P.)。 ────(2001年)田中成明・亀本洋・平井亮輔訳『公正としての正義 再説』(岩波書店、2004年) セン(1982年)「何の平等か?」(大庭健・川本隆史訳『合理的な愚か者』勁草書房、1989年所収) ─────(1992年)池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳『不平等の再検討』(岩波書店、1999年)。 ヌスバウム(2000年)池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ訳『女性と人間開発』(岩波書店、2005年)。 ─────(2006年)『正義のフロンティア』(M. C. Nussbaum, Frontiers of Justice, Harvard U. P.)