「ゼロから始めることの難しさ」   明治大学初の視覚障害学生として学生生活を振り返る                  東京ヘレン・ケラー協会職員  戸塚辰永     1.大学入試 1980年代、点字受験を認めている大学・短大は極少数。理由は、「前例がない」 文学部史学科を志望し、10校ほどの大学に打診したが、4校のみ受験を許可。 事前面談(受験生、保護者、盲学校進路指導部)、点字受験、入学後の学習環境 につ いて大学から説明を受ける。基本的に、大学は、「校内・周辺は、障害者用に施 設・設備が整っていないが、通学や勉学は一人で可能か、点字の教科書・参考書 等は、大学では用意できない」というもの。     2.明治大学入学   (1)点訳サークルの立ち上げ  1985年4月、明治大学初の点字使用の視覚障害学生としてU部文学部史学科西 洋史先行に入学。 点訳 点字タイプライターや点字板、点字独和字典は、ポケット字書ほどの語彙 数、戦前のものを点訳しており、勉学には役立たない。 入学当初、「学生生活をエンジョイしたい」と思いつつも、脆くも崩れる。自治 会関係の歴史サークルに入会。障害者としての意識を感化される。  点字サークルの結成 6月、歴史サークルが中心になって、点字公開学習会を 学内に宣伝。クラスメイトなど10人ほどが参加、これを切欠に点訳サークルが結 成。   「2」文学部の対応 組織としてのサポートは、とくにせず、クラス担任の斉藤助教授に一任。斉藤助 教授は、視覚障害学生の学習環境整備に孤軍奮闘するが、教授会等は、黙殺。斉 藤助教授からの謝罪→自治会を解した団体交渉決意。  10月、文学部教授会に視覚障害学生の学習環境整備等に関する「32項目の要望 書」(別紙)を口頭で告げる、教授会激震。   (3)「32項目の要望書」の問うもの  要望書の内用は、当時の常識ではとんでもないもの(?)、「バリア・フリー」、 「ユニバーサル・デザイン」、「障害学」などは記載されていないが、今でも通 用する所が多いのではないだろうか?   (4)教務担当理事との話し合い  点訳サークルとともに、要望書の回答を大学当局に要求したが、学部長、学長 など責任者は、誰一人として交渉の席には着着こうとしない。  1986年4月、全権を委任された教務担当理事と交渉、図書館内に対面朗読質点訳 作業質の設置、一部教科書・参考書の点訳保証、障害学生の入学後の学習環境当 の整備に関しては教務担当理事を長とする全学的な組織を新設する、などを文書 で確認。 交渉の意義 「受け入れても何もしなくてもいい」という大学の姿勢が改められ た。他の私立大学にも影響「?」 当時の限界 大学・社会ともに障害者への理解が乏しい時代であった。そのため、 私の要望は、学内の創意によって受け入れられたものではなく、運動という少々 手荒な手段を用い、政治決着を引き出すという形で受け入れられた。これも明大 ならではのことかも知れないが。  学生は、4年で卒業するため、交渉過程や制度が、障害学生、大学当局にも継 承されにくい。その点、「東京大学憲章」のように障害を持つ学生・教職員への 対応を明記することが望ましい。     2.当事者としてのジレンマ   (1)運動の先頭に立たされるしんどさ  明大初の視覚障害学生として、支援者(=活動家)とともに、運動を続けるこ とのしんどさ、「後輩のためにもがんばれ、俺たちもがんばるから」=うっとう しさ   (2)後輩との意識の相違 1986年4月、二人目の視覚障害学生入学。後輩は、大学への積極的な要望は、好 まず、運動に対しても否定的。「運動とは関係なく、穏便に静かに勉学したい」 と希望。後輩の気持ちも理解できた。   (3)点訳サークル内の路線対立 点訳サークルをてこに障害者運動を学内で展開しようとする活動家、障害者問題 には関心があるが、運動とは距離を置いて点訳活動をするニュートラルな支援を するグループ、点訳はこなすが、障害者とのかかわりを積極的に持たず、楽しく やって行こうとするグループ、に分裂 活動家が、楽しくやっていこうとするグループを排除→活動家との決別を決意     3.問題の個別化 視覚障害者の大学進学状況の変化  推薦入学がほとんどで、センター試験の点字受験者は極少数、20年余で視覚障害者・大学の双方の意識も変化、門戸開放も過去の出来事 現在の支援体制について。確かに「バリアフリー支援室」のようなものもでき て、それなりの前進はあるかもしれないが、横のつながりは希薄なのではないか。当事者 の学生と、その周りの学生。あるいは、障害をもっている学生同志のつながり。問題が、個 人化しており、一人で問題を抱え込んでしまうような可能性もあるのでは。学生支援も、 ある種、ルーティン・ワーク化しているのではないか。       4.ドイツ留学 1988年8月〜1989年3月、旧西ドイツ・ブレーメンゲーテ・インスティテュートに語学留学、当初「ゲーテ」は「前例がない」と断ったが、東ドイツ人の明大講師が、「ゲーテ」に猛抗議の結果入学許可される。     5.当事者の横の繋がり 80年代東京・三田の東京都障害者福祉会館に障害学生が屯していた。「視覚障害学生問題を考える会」(視障学生会)、「関東聴覚障害学生懇談会」(関東聴懇)相互の交流も活発、田中邦夫さん、木村晴美さん、福島智さん、村田拓司さんがいた。 門戸開放、学習環境整備、就職等、目の前の課題を討論、障害者問題を春・夏合宿で議論 関東、名古屋、関西の視覚障害学生の交流     6.小島純郎先生の存在  故小島純郎千葉大学教授は、双方の会の「応援団長」適存在。専門は、ドイツ文学だったが、視覚障害学生が受講すると、それを切っ掛けに点字を、聴覚障害学生が受講すると、手話を学び、それらを完璧にマスターし、盲ろう者協会の理事長として盲ろう者を支援された。 1970年代から教養学部で、点字セミナー、手話セミナー、後に盲ろう者セミナーを通年科目として開講、セミナーには地域の障害者が、気軽に参加、自分史、解除の要請等を学生に話した。 小島先生の築かれた輪が、障害学会でも継承されることを願う。